現生人類は、十数万年前にアフリカを出て各地に分散していった。そうした集団が日本列島に登場したのは、おおよそ紀元前4万年~3万8000年と考えられている。渡来ルートは、樺太を経て北海道に至る北回りルート、朝鮮半島を経る西回りルート、南西諸島を北上する南回りルートとわかれている。この人たちが縄文人の祖先となっていったと考えられている。
その頃の人々は、移動しながら狩猟採集生活を続けていたが、おおよそ紀元前1万3000年頃に「土器」が発明され、定住生活が始まっていった。「定住の開始からその後の発展、最終的な成熟に至るまでの、集落の定住の在り方と土地利用の顕著な見本」が世界史の特異な文明とされ、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産となった。集落は、サケなどが捕獲できる河川の近く。汽水性の貝類を採りやすい干潟近く。ブナやクリなどの群生地といった多様な場所を縄文人たちは選んでいる。
最大の集落として、三内丸山遺跡(紀元前3900年頃~紀元前2200年頃)がある。おおよそ40ヘクタールの敷地に、竪穴建物、大型竪穴建物、墓などが置かれている。なかでも、直径約1mの6本のクリの丸太が使われた高さ約15mの掘立柱(ほったてばしら)建物は集落のシンボルとなっている。また、長さ十数mになる大型竪穴建物もあり、縄文中期後半の最盛期には数百人の人たちが暮らしていたと考えられている。
三内丸山遺跡では、黒曜石を使った石器が大量に出土しているが、北海道の遺跡でも同じ石器とその材料である黒曜石が出土している。北海道・北東北の地域は、同じ文化圏として活発な交易や交流があったようだ。三内丸山遺跡はその中心集落として、まさに「交易・交流センター」のような役割も担っていたのではないかと考えられている。
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三内丸山古墳
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土偶
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土器
縄文時代には、カヤやクリなどの丸太を石斧などでくりぬいた「丸木舟」が造られている。そうした海上交通は、列島各地の集落を結ぶ交易ルートとして、重要な役割を担っていた。鏃(やじり)などに使う神津島産黒曜石を集積・加工した伊豆の集落も見つかっている。また、各地の遺跡で出土した装身具として腕輪や耳飾りなどに利用された貝(オオツタノハ)は、本土から230㎞も離れた御蔵島で採集されていた。沿岸航行だけでなく外洋航行もできるような航海術を持った専門技術・技能をもった人たちがいた。
未知の荒野へ踏み出した人たち。危険がいっぱいの海へ漕ぎ出した人たち。好奇心や冒険心が豊富だけではない何か違う精神性をもっていたのだろうか。そんな、縄文の人たちの営みは、創意工夫に満ちたもので実用的な道具だけでなく芸術性を感じさせる意匠をもった土器や土偶などの作品も作った。
最近の研究では、日本列島に「縄文文化」築いた縄文人は、私たちの直系の祖先ではないという。国のゲノム解析プロジェクトによれば、アジア各地の集団と比較しても近縁な集団はなく、現代に縄文人直系の子孫はいない。縄文人に最も近い人たちは、ゲノムの7割を引き継いでいるアイヌ民族であるようだ。
うむっさん