新上海紀行Part 3


ライター 千遥

地上4階の地下鉄駅


  タクシーに乗ると、薬膳料理で有名な「月善坊」には僅か10分ほどで着いた。振り返ってみると店は上海の著名な名所である「豫園」に近く、料理店がたくさん並ぶその一角にあった。あらかじめKさんが連絡してあったとみえ、到着するとすぐに用意された料理が出てきた。まずは二人で久しぶりの再会を祝いビールで乾杯だ。青島ビールである。グイーッと一気に飲み干しかわいた喉を潤したそのときに、「お久しぶりです。陳です」との優しい日本語が聞こえてきたのである。
 
  見上げると、そばで若い女性がニコニコと微笑んでいる。えっ、どうなってるのー。この上海に、私に知り合いはいないよ。まして若い女性なんて..........。先方はにこやかにしているが、こちらは暫しの間キョトンとしていた。だが、やがて急速に思い出してきた。そうか、間違いなく2回は会っている !!
 
  それはちょうど1年ほど前にKさんと一緒に東京に出たときだった。原宿でちょっとひなびた中国料理店に寄ったときだ。経営者は在日経験の長い中国人女性のように記憶している。
  そこでいつの間にやら我々と同席していたのが陳さんだった。Kさんが呼んでいたのである。そのとき私は特に親しく言葉を交わした記憶はない。そのあと、もう一軒行こうということになりKさんのあとについていった。そこはガラッと変わって女性が話のお相手をするスナックバーであった。そこでホステスとして働いていたのが陳さんだったのである。その店には、アルバイトで働く留学生などの中国人女性がたくさんいた。当方は酔いが回るにつれて、いい加減な中国語をぺらぺらと喋っていたものである。
 
  今回の上海再訪問においては、Kさんと陳さんにはすっかりお世話になった。結局はこのたびの10日間にわたる中国滞在において、最初から最後まで、陰になり日向になり陳さんに精神的な支援をいただくことになったのである。もちろん、当日はそんなこと、夢にも考えおよぶことはなかった。
  この月善坊のママは陸さんという。この店で日本語を話すのは陸ママしかいない。ほかに日本人のお客がいなかったせいもあり、ママは我々と同席してくれた。薬膳料理は食べ慣れた中国料理と違い、油が使われていない感じでとても美味しかった。さまざまな肉や野菜の味のしみ込んだいわゆる鍋物である。その後一度だけひとりで訪ねたが、あいにくと陸ママに会う機会を逃したのはまことに残念であった。

  到着の1日目は、日本語のみによるリラックスした雰囲気に包まれ終わろうとしていた。先々のことも考え、当日の会食代はひとまず私が支払ったが、3人で飲みかつ充分に食べて僅か162元である。日本円では3,000円にも満たない。食事代はほんとうに安いものだ。次に会うのは4日後の春節初日(2月1日)である。その日の打ち合わせを行なったあと皆と別れ、タクシーでホテルに戻った。 
 翌日は紹興に一人で出発せねばならない。早々に寝るか、と思ったが何となく室温が低い気がするのだ。エアコンが効いていない感じがした。温度調節や風量なども調べたがよく分からない。酒が入っていたから身体は温かい。それで面倒になり、予備の布団をたくさん引っ張り出し、全部かぶって寝てしまった。


  翌朝は寒さのためか、早々に目覚めてしまった。これは早速エアコンを見てもらわねばならない。エアコンは、中国語では空調(kong tiao)だったなぁ。「我的房間空調不好! 不動!」。これで通じるか。
  起きるや否やカウンターのお姉さんに伝えにいった。ゴジャゴジャと、何かオッサンが文句を言っているという光景である。でも、すぐに話は通じた。まもなく若い男性がやってきて、操作盤のビスを外したりして接触不具合を直した。これで、次からは快適に過ごせるというものである。何事も言うが肝心だ。



  1月29日の朝、フロントには明日は戻る、と告げバッグを預けてホテルの食堂にいく。安いホテルだからメニューはそれほど用意されているわけではない。お粥に包子(アン入りアンなし等がある)、たくあん、漬物、卵などで〆て5元(65円)也だ。
 出発は11:15分だから充分に時間はある。もう街は正月の準備で忙しいようだ。華やかな彩りと飾りつけで眩いばかりである。上海駅に出るのにもっとも近いのが本編冒頭写真の地下鉄「赤峰路駅」である。地上4階ほどの高さを地下鉄が走っている。東京のメトロと同じようなマークが目印だ。
 
 駅までは歩いて10分位でつく。電車はドンドンくるが日本ほどの混雑はない。それは多くの人々の交通手段が、自転車とバスによることが多いためだろう。いまや日本では効率重視のためか、ホームに駅員の姿をみかけることは本当に少ない。上海ではどこにでも駅員がいて、大きな声で注意をうながす。田舎から出てきた人たちやわれわれ外国人にとっては、たいへん有難い存在である。

  地下街に入ると、予想どおり故郷に帰る人たちで身動きできぬほどの混雑ぶりだ。おばあさんが大きな荷物を抱えて人ごみを掻き分け掻き分け強引に抜けていく。遠慮なんか全然しない。それが当たり前の光景であろう。私はといえば、肩にかけたバッグ一つだけだから、まことに気楽であった。しかし上手いことばかりは続かない。

  地下街から上海駅に出る通路が工事中でとおれない。それで随分遠回りして外にでた。ところが、どのへんにいるのかが分からないのだ。長距離の列車駅は「上海火車駅」という。火車は汽車のことである。乗り遅れたら最悪である。通りかかったサラリーマン風の男性に駅の入り口を聞いてみる。ところが何度発音しても通じない。よっぽど発音が悪かったのかなぁ。これだけは不思議だった。結局のところ、駅うらの入り口は徒歩50メートル位先にあったのである。
 
  紹興への列車は、新空調二等軟座特快である。名前はいかめしいが、まあ普通の列車だ。エアコンつきで、あまり停車しないというだけである。紹興までは3時間弱かかる。座席は満席だったが、それほど立っている人はいなかった。帰省にはちょつと早かったからかも知れない。
 私の座席は通路側。窓側には中学生と思われる男の子が腰掛けている。両親が斜め後方におり、そこから食べ物などがときどき届けられる。私の背中や前を食べ物が通り過ぎてく。ボーッとして3時間を過ごすのはちょっと辛いところだ。仕方がない。隣りの子と雑談を交わすことにした。黙っておれば、私が日本人とは彼は気づかなかったかもしれない。そうはいかないから、簡単に名乗ってからいろいろ聞いてみる。 


  紹興は小さな都市である。魯迅ゆかりの土地であり、魯迅記念館や周恩来の故居、記念館もある。そのほかには、やはり本場の紹興酒ということか。私はそんなことを考えていた。
  私は隣りの子に問いかけてみた。「我想去魯迅記念館和周恩来祖居=私は魯迅記念館と周恩来の祖居を訪ねたいと思っている」と。そして、紹興市では何処が見所の場所なのか、と聞いてみた。彼は東湖が良いという。小さな湖だけど、とても美しいところらしい。そんなことを話していたら、後ろの両親から私にも差し入れがくるようになった。息子も日本人としっかり話ができる、と喜んだのかも知れない。      
  話が噛み合ったり、まったく通じなかったりしているうちに紹興に到着した。この間、彼の名前は丁君であり、上海の中学校の学生寮に宿泊していることや両親も上海で働いていることを知った。家族お揃いの帰省だった。

  紹興に着くと、彼らの友だちが車で迎えにくるという。母親はホテルまで私を送ってくれるというので、そのご好意に甘えることにした。ところが車がなかなか来ない。旦那さんが携帯電話でしきりに話している。

  やや暫くして友人の車がやってきた。わずか10分程度だったが、ホテルに送り届けていただいた。少ない時間だったけど、また有意義なときも過ごすことができた。丁さんたちに感謝の気持ちをどう現してよいか分からない。「再見 !(サヨウナラー)」と叫びつつ彼らの車を見送ったのである。
 
  魯迅は1881年から1897年までの16年間を、この紹興で過ごした。私は彼ら紹興の人たちに幸多かれと祈りつつ別れを告げた。




丁さん一家 紹興の駅前にて