Part 6

                                                                            ライター千遥



紹興市・周恩来祖居


  紹興も2日目である。朝食のバイキングをしっかり摂ると、フロントで清算をすませ早々に出発した。しっかりした地図は通常は10元位するが、ホテルに備えてある紹興市内のホテルの広告が混在したものだから、4元の単純な品物。目指す周恩来の祖居は昨日の魯迅記念館とはまったく反対側にある。それほど遠くなさそうなので、地図を片手にキョロキョロ町並みを見ながら、トコトコと歩いていく。
 
  紹興市市内には当然だが、いろいろな店に、「紹興」という名の付いた店がある。大酒店はもちろん、小百花、小商品城、超市、威亨大酒店、風光大酒店など見ていると面白い。周恩来祖居は市内のほぼ中央にあるのだが、周辺は開発が進んでおらず、人通りも少なくひなびた感じであった。
  入場券は周恩来祖居のほかに記念館、さらにもう一か所入れるもので、18元。祖居は表記写真のように昔のままの佇まい、ほとんど手を入れずに残されている。入り口におばさんが一人、ポツンと椅子に腰掛けている。
 
 おばさんに、内部の写真は撮れるか、聞いてみる。「照相 可以ma?」と聞いたら、おばさんは「可以(keyi)」と答える。この「可以」という言葉はOKということだが、けっこう重要な意味を持つ。先般、瀋陽の日本大使館に駆け込んだ脱北者の家族が、中国公安当局に捕らえられるという事件が発生した。大使館は治外法権だから、中国の警察官でも許可なしに入ることはできないものである。
 
 ところが中国公安に尋ねられた日本大使館員は「可以」と答えたのだから、大使館員としての能力も、判断力も持たぬ情けない外交官ということになる。

  話が横道にそれたが、周恩来の生まれ故郷は江蘇省の准安である。親戚一族が紹興の出身だったこともあり、周恩来自身は「私は紹興人だ」と語っていたという。今回の訪問で一体いつ頃に住んでいたのかは、見逃してしまった。年表を見ても、そのへんははっきりしない。周恩来との接点が見つからないのだ。どうも、このあたりが当方の間が抜けたところである。紹興は長江(揚子江)の下流沿岸地域である。伝統的に穀倉地帯であり商業地域でもある。そして、優秀な行政官を輩出したところとしても有名である。そんなことが後日、周恩来の祖居に繋がったのだろうか。まさか、そんなことはあるまいが。

  周恩来は1898年3月5日に江蘇省准安県に生まれ、そして1976年1月8日に死去した。この8か月あとの9月に毛沢東が死去している。激動の時代を生き抜いた2人の巨頭が相次いで亡くなった。
  若きころに、周恩来も同胞とともに日本に留学している。周恩来は南海中学を卒業後、1917年9月に訪日。1918年から東亜高等予備校に学ぶが、第一高等師範に不合格、そしてまた、第一高等学校も不合格となっている。(
右の写真は日本留学時のもの)翌年の1919年4月にははやばやと帰国してしまった。日本では不遇な生活を余儀なくされた彼も、1920年の渡仏から1924年の帰国以後に持ち前の頭角をあらわしてくる。

  周恩来の生涯に関しては、手元の資料を整理した上で、更に詳しく書きとどめておこうと思う。祖居につらなって大きな記念館がある。ここは総理としての執務を行った個室や外国要人との接見の間、それに政府幹部の会合の部屋などが丁寧に保存されている。中には撮影禁止という部屋もあった。
  記念館の各所には抗日戦争を戦い抜いた写真や、国民党との国共内戦の模様など、数多くの歴史的な写真が展示されている。その中に、日本軍閥による中国人虐殺証拠写真が多く含まれていたことは言うまでもない。




   
 


  記念館では真面目な展示のほかに、周恩来グッズがたくさん販売されている。もうあらゆる物が土産として並んでいる。そんな店が館内のあちこちにある。そこは中国人だ、定価というものが存在しない。記念品として私は周恩来メダルと彼の写真入りの机上置物を購入した。価格そのものはそう高いものではないが、私の永久保存品である。 



 もうひとつ面白いことがあった。
パソコンを利用した即席入場券の製造販売である。
 この商売には、デジカメとパソコンが必需品である。
おばちゃんは写真を撮ると、用意された記念館の写真付き入場券を取り出す。
 いま撮った写真を挿入し、特製入場券を作成してしまう。
 こうして、世の中に1枚しかないオリジナルの「周恩来記念館の入場券」ができる。
 これ、1枚なら4元だが、4枚なら10元である。 
ちなみに、私は買わなかった。彼女は、当方のデジカメは日本ではいくらか、しきりに聞いていたのである。



紹興でのハプニング

 何となくお腹がすいてきた。12時はとっくに回っている。それではと、前日夜に下見した裏道の店に探検にいってみることにした。店の中をのぞいたら、やけに静かな感触が伝わってくる。お客が誰もいない様子だ。でも営業はしているようだったから、おそるおそる入ってみる。
 
  暫くして、店主らしきオヤジさんが出てきた。昼間なのに奥のほうが暗い。間口が狭いのに奥行きが随分とありそうな感じ。でも中に入っていくほどの勇気はない。近くにメニューが見当たらない。仕方ない。目の前に見えた紹興酒を注文した。冷たいまま出てきたから暖めてくれ、と言ったら酔っ払って帰れなくなるよ、と言う。

 そのうち2人の女性が出てきた。それに加え身体の大きな男性も現れた。(
右下の写真をクリック)あまりよい雰囲気ではないなぁ。しかし逃げ出すわけにもいかない。当方がうまく話せないから、彼らは日本人と察したようで、こんどはいろいろと聞いてくる。こちらは、「相手が聞いていることが分からない」から、答えにも窮する。


 
 しばらくして、もう1人男性が現れた。(右の写真)彼は英語ができる。それでやっとコミュニケーションがとれ始めた。実は、彼はこの店のオーナーでもあり、紹興に二つの会社を持つ社長だったのである。彼の名は「董漢禮」という。繊維関係の製品を作って、主にヨーロッパに輸出しているそうだ。「日本への輸出もしたいので、手を貸してくれないか」という。

  「それは無理だ。私は既に退職しているし、それに繊維はこれまでやったことが無い」と断った。話は、そんなことで終わった。帰りの時間がせまっている。25元の飲み代を支払ったら、彼も杭州にいくとのことで、彼の自家用車で紹興駅まで送ってくれた。

  帰国後まもなく、董さんから同じような趣旨のメールが英語で舞い込んできた。商売柄、英文は流石に慣れたものである。ただ、すべてが大文字だから慣れぬと読みにくいものである。

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DEAR MR.DUBIAN,
HOPE YOU ARE KEEPING WELL! I MET YOU IN SHAOXING AND SEND YOU TO TRAIN STATION
DO YOU REMEBER ME?!
IF POSSIBLE PLS YOU CAN INTRODUCE MY FACTORY TO YOUR FRIENDS
MY FACTORY IS IN SHAOXING MAIN PRODUCTS:KINDS OF JACKETS INCLUDING THIN AND THICK DOWN-FILLED COAT AND DENIM SUITS MY FACTORY HAS 5100 WORKROOM 400PCS WORKER AND
AND TECHNICIAN OUR PRODUCTS EXPORTED TO EUROPEAN ,USA, AND SOUTH AMERICAN ECTS
THANKS YOU IN ADVANCE
BEST RGDS
DONG HAN LI (HENRY DONG)

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  私にもすぐに理解はできた。しかし出来ぬものは仕方ない。彼の希望に応えられなかったのは残念だけど、これは丁重にお断りのメールで勘弁してもらことにした。(つづく)


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