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目指せ 日本の大復興 partⅡ


         
  2011年3月11日に発生した東日本大震災により被災された地域の皆さま、 ご家族、関係者の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。被災地の一 刻も早い復興をお祈りしております。


 
 「天災は忘れた頃にやってくる」とよく言われるが、最近は忘れる暇もないままに、つぎつぎと世界の各地で天災に見舞われている。
 本年2月22日、ニュージーランド南島の最大都市クライストチャーチでは M6.3の強震が発生した。この地震では倒壊したカンタベリーTVビルに通学し、看護師の国際的な資格取得を目指していた日本人女子学生たち28名が全員死亡した。人々は前途ある若き学生たちの死を嘆き悲しんだ。最後の死亡確認は、東日本大震災の発生から20日以上も過ぎた4月4日だった。
 そんな悲しい事件も人々の脳裏から消え去ってしまうような、まさに夢想だにしなかった強烈な地震が東北地方を襲った。まさか、この時期に、この日本列島にこのような超巨大な津波が押し寄せてくるとは、誰しも思っていなかったに違いない。考えてもいない災難がやってきた。地震の巨大さはもとよりだが、それによる地殻の変動が起こした大津波は、地元の方々は勿論のこと日本全国、いや世界のあらゆる人々を恐怖の底に陥れた。

 過去に何回も津波被害の経験のある三陸地方では、防風林や防波堤などの対策も、充分になされていた筈である。しかし、このような過去の経験則も全く役に立たない「想定外」の大津波は、そんなものは軽々と乗り越え沿岸の各市町村の奥深く侵入した。自然の猛威の前に人類の知恵は到底およばなかった。
 4月30日現在、死亡者は14,662人、行方不明者11,019人、避難されている人は127,076人にも及ぶ。 かなりの身元不明者が死亡者の中に含まれているとしても、いまだに多くの方々が瓦礫の下や泥水、あるいは海中や海底に沈んだままになっているに違いない。

 66年前の米軍による東京大空襲は、奇しくも一日違いの3月10日である。これは、10万人もの人々を全て火あぶりの刑に処するが如き無差別の爆撃だった。街中に存在するものすべてを焼き払う、恐ろしき仕業であった。
 このような人為的なものとは異なるが、このたびの津波も同様に、無差別に町も村も人も船も飲み込んでしまった。大きな違いは広大な各地の瓦礫である。この瓦礫の下に人が埋もれていると思えば、機械的に瓦礫を処理することは出来ない。
 いまだに発見されない方々を探し出す作業は、瓦礫の処理とともに年単位の日々を要するであろう。この途方もない作業に従事する消防や自衛隊の方たちは勿論のこと、ボランティアの皆様の活動には感謝の気持ちで一杯である。
 現地の関係する肉親や親族の方々は、少なくとも遺体が発見できるまでは、空しく、落ち着かない日々を過ごさねばならない。まことに残酷な毎日のこととご推察するばかり。何も出来ない自分が悔しい。

           


 このたびの大津波については、その状況が即座にテレビで報道された。この生の映像は視聴者に津波の恐ろしさ、強大な破壊力を刻一刻と知らしめることになった。それに加え、多くの動画がインターネットに投稿されている。その中には、この津波の発生から陸地への到達速度を測定した方がおられる。これは、今後の津波対策上の大きな資料ともなるであろう。それを、記録としてここに残したい。
    
                                      
~資料は岩手県立博物館より~



         
115キロの猛スピードで押し寄せる津波  高さ38.9㍍

 東日本大震災で岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島を襲った津波は、上昇した潮位がいったん下がった後、高い波が時速約115キロの猛スピードで押し寄せていたことが21日までに、岩手県立博物館(盛岡市)の大石雅之首席専門学芸員が入手した連続写真の分析で分かった。
 大石さんは「大震災では、津波が一度引いた際に自宅に貴重品を取りに帰ったり、漁港の船に戻ったりした人が犠牲になった。一連の写真は、この実態を裏付ける資料」としている。
 写真は大震災当日の3月11日、重茂半島の川代地区の漁港を撮った67枚。地元の植物研究家大上幹彦さんがデジタルカメラで撮影した。
 地震発生から約23分後の午後3時9分ごろから潮位が上がり始め、同12分に漁港の防波堤が水没したが、同16分には水位が下がって再び防波堤が姿を見せている。
 しかし、地震発生32分後の同18分、約800メートル沖の岬の部分に白波が現れ潮位が再び上昇。津波が猛スピードで岸に到達した。津波が岬から海岸に達するまで約25秒なので、速度は時速約115キロになる。
 津波は繰り返し押し寄せ、水深が浅くなると速度が遅くなるため、前の波に後ろからの波が追いついて折り重なり急激に高くなるという。
 重茂半島の姉吉地区では、陸地の斜面をさかのぼった津波の高さ(遡上高)が過去最大規模の38・9メートルに達している。


 
  


        
千葉県北西部で 竜巻とみられる突風 発生す !!!

 「人は忘れることにより生きられる」という動物でもある。これは、おっさんの勝手な思い込みであるかも知れない。ところが大震災報道がメディアにあふれる中、当地方に竜巻と思われる現象が起きた。

 4月25日の午後1時15分頃、千葉県北西部で竜巻とみられる突風が発生した。
報道によれば「柏市名戸ヶ谷のホームセンター駐車場では、車6台が風にあおられて横転したり、別の車にぶつかったりした。幸いけが人はなかった。県防災危機管理課によると、午後4時30分現在、柏市、鎌ケ谷市で屋根瓦が飛ばされるなど住宅31棟で被害が出た」とある。
 おっさんは当時たまたま在宅していた。おばさんは船橋へ出かけていた。風が強くなり、ベランダの洗濯物が激しく煽られるので、飛ばされたらまずい。下階の家に迷惑をかけてしまう。それで、日頃は何もしないおっさんだが、全部家の中に取り込んだ。
 テレビを見ると「鎌ケ谷などに竜巻か」などと、放送している。2月の日ハム自主トレにおける斉藤フィーバー以来、久しぶりに「鎌ケ谷」の名が全国に流れた。たまたま被害は少なかったものの、こんな事例も起こりうるものか。想定したこともない出来事であった。

     


 
  横倒しになった車 飛ばされたコンテナ(柏市) 飛ばされた家屋 屋根をはがされた工場(鎌ケ谷市)

                                 
~yorimoおよび asahi.comより~


          暴風雨死者300人、米最大級被害に「まるで日本の被災地」(共同通信)

 
アラバマ州など米南部6州を襲った竜巻を伴う暴風雨の死者は29日未明、少なくとも300人に達し、約315人が死亡した1974年に次ぐ米史上最大級の暴風雨による被害となった。壊滅状態の現場はがれきの山と化しており、東日本大震災の取材を経たばかりの米メディアは「まるで日本の被災地を見るようだ」と伝えた。

 最大の被災地はアラバマ州で、少なくとも204人が死亡した。ミシシッピ、テネシー、ジョージア、アーカンソー、バージニア各州でも死者が出ている。米メディアによると、27日からの一晩で約150の竜巻が発生、被害を拡大させた可能性があるという。

 オバマ大統領は竜巻被害を「壊滅的」と述べ、「暴風雨がいつ、どこを襲うかについては操作することはできないが、政府の対応を管理することはできる」と政府として支援することを約束。29日、被害が激しかったアラバマ州タスカルーサを訪れた大統領一家は被災者を慰問する予定だ。



 鎌ヶ谷の竜巻どころではない。いまや天災は忘れないうちに、ドンドンと続けざまに襲ってくる。阪神大震災の記憶は未だ新しい。しかし、そのときの教訓をしっかり覚えて地震に備えていた人たちはどの位いたのだろうか。寝ているときの家具倒壊防止措置や、非常時の懐中電灯、非常食などをリュックに入れて枕元に置いていたりする家庭も多かった筈だ。

 だが先日、団地の集会で皆様にお聞きしたら、今やそのような備えは殆どしていなかったようである。我が家も同様のありさまだ。かような状態の家庭が大半と推測する。まさに「のど元過ぎれば熱さも忘れる」を実践している。このような家庭は、地震や津波の怖さを本当に知っているとは思われない。いや、知って確かに覚えているのだが、月日の経過は全てを忘却の彼方に押しやってしまうのだろう。

 たびたび津波に襲われてきた三陸海岸の皆様は、充分に津波に対する準備をされていたとは思う。しかしながら、その備えを津波が上回ってしまったのが現実なのだろう。「想定外の大きさだった」と済ませば、すべては終りだ。自然の破壊活動は、殆どが人間の生活行動に比例しているように思えてならない。そのツケは、確実に子々孫々に伝えられていくのだろう。我々は自らの時代になした自然破壊の罪を子孫に回さぬよう、心せねばなるまい。

             


    
    
            
震災二日目には姿を消した 懐中電灯や乾電池

     

        
スーパーやコンビ商品は買占め      ガソリンスタンドは開店休業



     
またまた 起きた「買占め騒ぎ」→→ .お願いだ!!  こんなことは止めてほしい!!!

 他の国の人々が日本に旅行で来たり、留学や仕事で滞在したときの印象は、概ね「日本人は親切で、非常に礼儀正しい」と言われることが多い。
 しかしおっさんは、これが特に日本人だけの長所とは思わない。米国でも電話のかけ方に困っていたおっさんに、丁寧に教えてくれる青年がいた。また中国では、道を教えるだけでなく現地まで案内してくれる女子学生がいるし、電車やバスなどでは老人に必ず席を譲ってくれる。
 おっさんは定年後12年になるが、その間わが日本国で席を譲ってくれた人は片手にもならない。日本人は意外と自分勝手な人種と思っている。

 おおまかに見れば、「人の行動は基本的に、困っている人を助ける」。このことに人種の隔たりや変化は無さそうである。このたびの大震災においても、各国から多くの支援申し出があり政府はどう対処すべきか迷うほどと聞いている。

 日本人の行動で最も見たくないのは、今回の大震災において多くの地区で見られた「買占め」である。オイルショックのときには、トイレットペーパーが買占めで消えてしまった。このときは人の話や報道だけだったが、実際の生活で不便した記憶はない。3月11日のテレビを見た奥様方は市内のスーパーに殺到し、米類、カップ麺、飲料水、冷凍食品などがたちまち棚から消えうせる騒ぎとなった。

 おっさんは車で、市内殆どのスーパーやドラッグストア食品売り場などを見て回った。スーパー側も混乱を避けるために「お1人様1点限り」などで対応したものの、家族が総動員されたのか、お目当ての商品は棚から消えうせた。普段は店内の写真などは許されないが、店員もお客への対応でそれどころではなく、おっさんは悠々と各店の状況を写させて頂いた。ある店で納豆が残っていた。これも一人1点限りだ。しかし、レジまでは物凄い行列だった。諦めて帰ったら、その後どの店でも納豆の姿を見かけることはなかった。

 我が家では、納豆の買いだめはなかったが、カップ麺などは多少はあった。東北各地の被災状況を見て、奥様方は当地でも同様な震災が続発すると考えたのだろうか。まさか、そんなことはあるまい。深く考えることもなく、皆が同じ行動に走る群衆心理の一つなんだろう。

 ここで少し冷静になってみれば、買占めに走る必要などはない筈のに..。明日からは、食べるものがなくなるのか。そんなことはない。テレビを見て、被災地の方々はどれだけ悲痛な思いをしているのか、じっくり考えてほしいものだ。彼の人々は、辛うじて命が助かっても「身体一つの生活なのだ」。
 基本的に、日本人とは「自分だけ良ければ」という民族と考えざるを得ない。中国などでは店員の制止も聞かず店内に殺到するだろう。ところが「日本人は長い行列でも我慢して、整然と並んでいる」。これらを見て、中国人は「礼儀正しい民族だ」と賞賛する。これは大きな間違いだ。

 きちんと並びはするが、奥深いところでは「自分だけ良ければ、それで良し」の自己中心民族と思うと、情けなくて涙が出る。......もちろん、一時金で数億円も寄付し会社役員退任までの報酬すべてを寄付したり、多くの方々が義援金に協力する。若く元気な人は、ボランティアとして現地で働く。これが日本人の有する本質と思っているが、買占めの行動だけは許せない。みっともないとは思いませんか? 奥様方 !!!    (C・W)

   

                       <被災者への応援から>

  【田中好子(スーチャン)さん最後のメッセージ】

 こんにちは。田中好子です。

 今日は3月29日。東日本大震災から2週間経ちました。被災された皆さまのことを思うと、心が破裂するように痛み、ただただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。 (中略)
 私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。でもその時は、必ず天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています。 (中略)

  お礼の言葉を、いつまでも、いつまでも皆さまに伝えたいのですが、息苦しくなってきました。
 いつの日か、妹、夏目雅子のように、支えて下さった皆さまに、社会に、少しでも恩返しが出来るように復活したいと思ってます。カズさん、よろしくね。その日まで、さようなら。




       

    
4月21日、亡くなった田中さん(享年55)

 
癌との闘病生活20年、死を悟る病床の中で被災者に残したメッセージ。葬儀の日に、録音された肉声が披露された。泪もろいおっさんは、涙腺がうるむばかりであった。



  
【インドネシアからのメッセージ】

          

           
          
 

   
 【船橋市に転居した福島のお友だち】 クリックで、地震直後に原発付近から退去を命ぜられた方と、

                                  おっさんの娘との交流がみえます