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**** 戦後60年のオッチャン **** |
敗戦近き頃
終戦の8月15日にオッチャンの父は、すでに、ちゃんと家に戻っていた。毎日の空襲も一層激しさを加え、戦局は益々厳しくなる中、その真っ最中に貴重な戦力である1人の兵士が満州から帰還し、家で昼間から酒を飲んでいたのである。そして兄弟では最も可愛がっていたと思われるオッチャンを相手に、チビリチビリと杯を傾けながら、馬賊の歌などをうたって聞かせていた。満州かぶれ、というか暢気な感じがした。敗色濃き荒野での激戦を戦いぬいてきた風情は、どこにも見受けられなかった。
部屋の最も目立つ壁には軍馬にまたがり、側溝を越える写真が誇らしげに飾ってあった。何事にも要領が悪く祖父にも、うとんぜられた父が、軍隊生活で突然豹変したとはとても思えない。家では威張っていたのに、軍隊では役立たずと捨てられたか。いや、そんなことはないなぁ。1人でも兵隊の欲しい時期だったのだから........。父が早々に帰国していた理由は、不明のままである。
幼かったオッチャンには、「鬼畜米英」などといわれても実感も湧かなかった。アメリカとの戦いがどう進展しているのかも勿論のこと分からず、当時、家に父がいることに何の不思議さも感じなかった。父は、奥まった自室で軍刀に粉末をかけ真面目に手入れをしていた。ときおり刀身をかざして満足気に眺めているような姿を見た。
階級は少尉(軍医)だったから軍刀に加えサーベルも所持していた。元々職業軍人ではないのに、そして戦闘経験もない者が任官早々に将校であったのは、医者だったせいなのだろうか。外科医であったから、戦傷者の手当てなどに貴重な存在だったのかも知れない。おそらく前線とは遥かに遠い後方の病院にでもいたに違いない。
僅かに手元に残る父の写真。出征を前にしたらしい記念写真には、母や小さな兄弟を従えて父は正式な軍装で凛々しく残されている。横浜の実家の玄関先で撮った写真などをみると、陸軍の軍帽をかぶり、しかと軍刀を構えた立派な将校の姿があった。どこの家でもそうだが、これから命をかけた戦場へ出かけるという悲壮な面影は見えなかった。悠然とした日本軍人の姿がそこにはあったのである。
小さな子どもたちにとって、戦争を最も具体的に実感できるものは、やはり映像である。町で一軒しかなかった映画館では従軍カメラマンによる日本軍進撃のニュース映画とともに、戦争そのものを鼓舞する映画がいつも上映されていた。戦後は別として戦前に見た映画では、特に記憶に残っているものは少ない。小学校に入りたての児童には、戦争の何たるものかが判別できる術はなかった。が、敵をやっつけるという高揚感は、当然ながら湧いてきたものである。当時は、学校と家庭の教育がすべてである。それ以外の情報は全く入らないから、幼い子どもたちに別な判断などはしようも無い。
いくつか見たであろう戦争映画の中で、最も記憶に残るのは「加藤隼戦闘隊」である。オッチャンは60数年を経た今でも、そっくりその歌詞を覚えている。知らず知らずのうちに軍国少年として育てられ、米英軍に対する敵愾心を相当に叩き込まれたに違いない。
♪エンジンの音....、ゴウゴウと 隼はゆ〜く 雲の果て....翼(ヨク)に輝く
日の丸の
胸に描きしアラワシの...印(しるし)はわれらが戦〜闘〜機〜♪
映画はもちろん白黒であるが、下記添付の写真に見るごとく幼き子ども心にも航空機は格好もよく、憧れをそそるものではあった。後にやっと分かったのは、1944年には彼(加藤隊長)を主人公にした映画「加藤隼戦闘隊」が公開され、藤田進が加藤建夫隊長役を演じたことであり、さらには、この映画の主題歌を灰田勝彦が歌い、大ヒットしたことである。
映画のストーリー(概略)
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1941年12月、加藤少佐の指揮する飛行第64戦隊は、まず山下奉文中将の指揮するマレー半島上陸部隊の大船団を護衛して、インドシナのフコク島からタイのナコンへ飛んだ。任務を終わった加藤隼戦闘隊は、さらにマレーのコタバルへと前進基地を進めた。その進撃振りは、まさに神業というべきだった。
(中略)
(ベンガル湾に逃げ込んだ敵機を隼戦闘隊は攻撃する。敵機の防御火器で1機の隼が落とされる)
くそー!
(怒りに燃える加藤隊長は敵機を攻撃、左エンジン付近から火を吹かせた。だが加藤隊長機も翼に敵弾を受け炎上した。敵機は墜落し、また加藤隊長の隼もベンガル湾の海に墜落した)
隊長殿ー!!隊長!!
遂に飛行第64戦隊長・加藤建夫中佐は、ベンガル湾の海底深く永遠に帰らぬ人となった。時に5月22日午後2時30分。しかし加藤中佐は生きていた。その不屈の闘志と精神は部下たちの心の中に.....生きていた。
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<解説>
これは素早い決断で機会を掴み、見事なチームプレーで数々の戦果を挙げたといわれる陸軍飛行第64戦隊、通称「加藤隼戦闘隊」と、その部隊長加藤建夫をテーマにした映画である。飛行第64戦隊の開戦以来の出動回数は戦果を得たもののみで45回、同部隊が撃墜破した敵機は支那事変の戦果を含めて268機に達するという。
加藤建夫の戦死は1942年7月22日に陸軍省から発表され、同時に5月22日付けで少将に2階級特進したことを明らかにした。軍神加藤少将も、日米開戦の半年後には海の藻屑と消えていたのである。
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その頃父はまた問題を起こしていたようで、勤務先の病院は変わり町外れの小さな診療所に移っていた。医者も1人だけだったように記憶している。オッチャンが診療所に行くと、暇な父は昼間から酒を飲んでいた。6畳か8畳の部屋で1人で飲んでいる。押入れの中には一升瓶がたくさん几帳面に並んでいた。それらはみな、患者が苦労して持ってきたものだった。
兄弟の中でも可愛がられていたオッチャンだが、実際に優しい言葉などは、かけられたことはない。本人は軍隊生活も短く戦闘の激しさも残酷さも経験しなかったようである。我々に対しては威厳もある怖い父親ではあったが、実態は軍隊生活を満喫した特異な軍人だったような気がする。聞かされたのは満州における馬賊の話が多かった。しかし今、オッチャンにはその一つすら思い出すことは出来ない。そんな馬賊の話をするときが最も機嫌がよかった。外地に出征していた割には見せ掛けだけの軍人だったように思える。
町の中心地から引っ越したところは、日光連山が一望に見える西のはずれであった。中禅寺湖から華厳の滝を落ちた水流は大谷川(ダイヤガワ)となって、わが町の北側をながれていた。そして利根川と合流し、太平洋にいたる。
それはそれとして、わが家の西隣りに家は無く、冬季は日光連山から吹き降ろす厳しい風雪をまともに受ける過酷な状況にさらされていた。家は木造平屋建てで、二間(ふた部屋)しかなかった。4.5畳の板の間と6畳のタタミの部屋だけだった。実態は6畳の部屋に母子5人が住んでいたようなものである。
ガラス戸などは隙間だらけ、あちこちから冷たい風が入り込み、外にいるのとそれほど変わらなかった。暖房は炭火のコタツのみだから、全身をコタツ布団の中に入れ暖をとるのが最高の手段だった。夜は夜で火気はゼロだから兄弟はエビのように身体を丸め、折り重なるようにお互いの体熱で寒さを凌いだ。
一方、父は診療所のしっかりした家に住んでいたのである。なのに我々母子5人は狭い家に身体を寄せ合って生活していた。何故にそんなことになっていたか。当時は分からなかったが、後日そのわけも判明した。それは家族間の離反に繋がる事態が既に発生していたからである。これら生活の実態はのちほど詳細に記したい。
いずれにしても60年の歳月が過ぎたものの、「故郷の山に向かいて言うことなし.....故郷の山は美しかりけり」か。田や畑は減少し、オニヤンマが水平飛行していた小川も埋めたてられ、砂利道は舗装されて昔の姿にはほど遠いものである。だが、日光連山の景観には、目に見えるほどの違いはない。連なる山並みに何らかの変化が起きた兆しはない。半世紀を経ても、同じように変わらぬ雄姿を見せている。
その頃オッチャンは、日本の敗戦は明らかにも拘わらず、また、ニミッツもマッカーサーも何者たるかを知らず、歌詞も分からないままに、勇ましく「出て来いニミッツ、マッカーサー 出てくりゃあ 四国へ逆落とし」、などと歌っていたのである。この歌は、レコードにもならなかったというから、一体何処から何から覚えたのか。ラジオもあまり聞いたことがないし、不思議なことが多い。ちなみに、これは『比島決戦の歌』という。歌詩の全体は次のようなものだが、前半だけしか覚えていなかった。それに歌詞もウロおぼえだったようで間違いもあった。
「決戦かがやく アジアの曙 生命(いのち)惜しまぬ若櫻 いま咲き競う フイリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし 」
「陸には猛虎(もうこ)の 山下将軍 海に鉄血(てっけつ) 大河内(おおかはち) 見よ頼もしの 必殺陣
いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりや地獄へさか落とし」
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注:
当時の米軍の指揮官が、マッカーサー(連合国軍総司令官)、二ミッツ(太平洋艦隊総司令官)の両将軍であったことから、このような文言となったらしい。歌の目的は、フィリピン(比島)の決戦を機に、さらに国民の士気をふるいたたせ敵愾心を昂めるためである。そのため、歌と平行して「いざ来いニミッツ・マッカーサー、出てくりゃ地獄へさか落し」と記した大きな長い垂れ幕が、丸ビルや有楽町駅の近くのビルの屋上や屋根に出されたという。
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オッチャンが通った疎開先の小学校校庭の校舎玄関近くに、異様な建築物があった。鉄筋コンクリートで作られたもので高さは1メートルほど、上辺は平面で、裾が長く富士山のように延びていた。言い換えると富士山の頭を平らにしたものを想像すると間違いない。(写真とは異なる)
毎日の朝礼のときは、この建物に最敬礼するとともに、宮城(皇居)の方向に向かい深々と頭を下げ、それから校長先生の訓話を聞いていた。そして乾布摩擦を行うのが常であった。この乾布摩擦は身体を温めるにはよかったが、何しろ食べ物が絶対的に不足していたから、同級生や上級生を問わず、栄養失調による結核でやせ細り、バタバタと死亡者をだした。しばらく学校に来ないなあ、と思っているとバラックの家の前で青い顔をして立っているのをみかけたりした。もちろん、死の直前にあったものと思われる。
校長の話などは今や何も記憶にない。おそらく戦意高揚の話などをしていたのだろう。小学校も高学年ならば、もう少し具体的なことも覚えていたろうが、オッチャンには忘却の彼方へ去ったものが多い。1、2年生程度では役に立たぬためか、農作業の手伝いの経験もないし、軍事訓練の経験もない。田舎の町ゆえ爆撃そのものは受けなかった。ただ完璧に制空権を確保した米空軍が頻繁に来襲したため夜になれば、空襲警報が鳴り響き、そのたびに40ワット程度の裸電球に黒い布をかぶせて暗くしてジッと警報解除まで待っている毎日であった。
こんなことで、バケツリレーによる消火訓練程度の手伝いに出ていたようなものだろう。
当初述べた異様な建築物、実は町で唯一の立派な建物は、天皇と皇后の御真影とともに教育勅語がおさめられていた。こんなことを知ったのは、たぶん高校生以降のことと思う。この種の建物は各地の学校にあり、紀元節や天長節などの式典に際して扉を開き、御真影への最敬礼と教育勅語の奉読が行われていたという。また、登下校時や単に前を通過するときにも職員生徒は服装を正してから最敬礼するよう定められていたという。オッチャンは全く覚えていない。ただし、この建物の周りには丸い石が敷き詰められ、周囲は鎖が回されて入れぬようになっていたと記憶する。
この建物があるときから突然、二宮金次郎の銅像へと変わった。これが戦争終結の明白なるシグナルだったといえる。それから、我々ちびっ子は隣接したツルツルのサルスベリの木に登り遊んでいたものである。そうそう、この建物は奉安殿(ほうあんでん)といい、昭和10年前後から活発に全国の小中学校に設けられていたそうである。この御真影を守るために「宿直制度」が出来たというが、これは眉唾ものかも知れない。
♪ 芝刈り 縄ない 草鞋をつくり 親の手を助(す)け おとうとを世話し
兄弟仲良く孝行を尽くす 手本は 二宮金次郎 ♪
と、よく歌ったのも二宮金次郎のちの二宮尊徳が、わが町で没したことに大きなご縁があったのだろう。
戦争終結をはっきりと意識したことは、残念ながらよく覚えていない。紆余曲折を経て8月15日正午に天皇のラジオ放送があったことは事実であろうが、オッチャンが幼すぎたためか、聞いた記憶はない。日本の敗北を真に実感したのは、それまで高空を飛んでいた米軍機が小さなわが町でも低空飛行し、飛行士の顔まではっきりと見えたことであろうか。10月31日付の朝日新聞天声人語に、国民学校5年生が日記にかように書いた。「本日は連合国の進駐する日とて、米機すこぶる低空にていういうと飛びゆく。くやしいが、何とも出来ぬ。ただ勉強するのみ」。まさに、このとおりであろうと思う。
最後に、15日の玉音放送なるものの全体文を掲載しておきたい。
朕(ちん)深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕は帝國政府をして、米英支蘇四國に對し、其(そ)の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。抑々(そもそも)、帝國國民の康(こう)寧(ねい)を圖(はか)り萬邦共栄の樂(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の遺範(いはん)にして、朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、曩(さき)に米英二國に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)實に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他國の主權を排し領土を侵すが如きは、固(もと)より朕が志にあらず。然るに、交戰巳(すで)に四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戰、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の勵精、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公、各々最善を盡せるに拘(かかわ)らず、戰局必ずしも好轉せず、世界の大勢亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶ所眞(しん)に測るべからざるに至る。而(しか)も、尚交戰を継續せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招來するのみならず、延(のべ)て人類の文明をも破却すべし。斯(かく)の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保し、皇祖皇宗の神靈に謝せむや。是(こ)れ、朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以(ゆえん)なり。朕は、帝國と共に、終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝國臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に 斃(たお)れたる者、及(および)、其の遺族に想(おもい)を致せば、五内(ごない)為に裂く。且(かつ)、戰傷を負ひ、災禍を蒙(こうむ)り、家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。惟(おも)ふに、今後帝國の受くべき苦難は、固(もと)より尋常にあらず。爾臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の為に太平を開かんと欲す。 朕は、茲に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常に爾臣民と共に在り。若し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端を滋(しげ)くし、或は、同胞排擠(はいせい)互に時局を亂(みだ)り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく擧國一家子孫相傳え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)ひ、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏(かた)くし、誓って國體の精華を發揚し、世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克(よ)く朕が意を體せよ。
なお、「当月のコラム」は筆者の幼少時の体験と記憶を辿り執筆したものであり、その欠落する部分を各種資料より補ったものであります。筆者の現時点における認識と、同一のものでないことを追記いたします。 (C.W)