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**** 戦後60年のオッチャン ****

  暑さに拍車をかけた総選挙

  本題に入る前に、この酷暑の夏を振り返ってみよう。当コラムは筆者の日誌ならぬ「月誌」でもある。その時々に起きた事実とともに、そのとき、心に響いた感想をも載せておきたい。そして1年を過ぎたあとに見る楽しさを残そう。
  今年の夏は降り注ぐ太陽の暑さもむごいものであったが、更に暑くさせるものがあった。郵政改革法案に対する8月の参議院での否決により、小泉首相は衆議院の解散に踏み切った。参議院の否決を理由に衆議院の解散を行うことに若干無理な解釈があったものの、違法とは言えない。そして、9月11日の総選挙では反対派議員のもとに、続々と刺客と呼ばれたエリート官僚や著名人、そしてタレントもどきの候補者を送り込み、完膚なきまでに反対派を蹴落としたのである。

  印象的なのは、世代交代が進んで首相のやり易い体勢が出来ていたことでもあろう。中曽根元総理を強引に比例区からはずしたのが、その象徴的なことであった。そして宮沢元総理も引退した。派閥の解消も進んだ。橋本元総理も引退、村岡元官房長官は一億円の汚職問題で出馬ならず、野中元幹事長は自ら引退の道を選んだ。「自民党をぶっ壊す」と叫んで総裁に選ばれた小泉氏は、新人議員83人を当選させたことで、解散の目的は見事なまでに実現した。これにより、橋本派をはじめ亀井派など大派閥は壊滅状態に追い込まれたのである。
 
  選挙の結果は、争点を「郵政改革に賛成か反対か」に的を絞った小泉戦略がものの見事に的中し、稀に見る自民党の圧勝となった。元々郵政改革は、10数年も前の米国の発案と言われている。郵便局の豊富な資金を海外流出させようとのことだったらしい。投票の結果は反対派旧自民党員は雪崩を打って落選し、大物議員では、辛うじて綿貫元衆議院議長と亀井静香氏だけが残った。これも新人の候補に押され、まさに薄氷を踏む思いの僅かな票差での勝利に過ぎない。刺客作戦は、「くノ一」の色気と才気が存分に活用されたものであった。これが成功の一歩である。選りすぐりの刺客からは落選者はでなかった。岡田党首の絶叫や民主党の豪腕・小沢副代表の応援も、くノ一刺客や忍者に通じなかった。

  当地鎌ケ谷にも自民・民主両党の候補者支援では、大物議員たち ? が応援に駆けつけた。市民派と見られる菅さんはいつも人気があり、おばちゃんたちの動員には効果的である。岡田代表や小沢副代表も始めてこの鎌ケ谷市を訪れた。自民は安部副幹事長だけである。警備が最もきびしかったのは、安部氏だった。SPが数人街宣車の周囲を固め、地元警察官やパトカーの配備を指示している気配がありありだった。

  結果は自民党の一人勝ちに終わった。だからといってオッチャンは、小泉郵政改革が国民に完全に理解され、支持されたと思ったなら、大間違いだと思っている。そもそも日本人の発想や思考傾向は、ごく単純であり、ムードに流されやすい。小泉氏は「郵政改革に賛成か反対か」、この一点を強調し、反対者は全て抵抗勢力と見なす雰囲気をつくりだした。反対する者はすべて悪者扱いである。民主党はマニフェストなる分厚い冊子を作り、懸命に配ったが配布しきれず、選挙後に大量に残ってしまったと言われる。突如現れたマニフェストという言葉も分かりにくい。いわば「政権公約」なのだが、短期間にその構想を国民に理解させ、浸透させることに無理もあった。 
                          
  そもそも短期決戦の選挙戦に、細かいことを書き並べても誰が読むのか。はなはだ疑問であった。受け取った方々も、帰宅途中にゴミ箱に捨ててしまった人も少なからずおられたに違いない。最近の世相をみると、オウムをはじめインチキ宗教教祖が幅をきかせている。その数も多い。困ったときの神頼みならぬインチキ教祖に引っかかって、金品を騙し取られる話も多く聞いている。ヨンさまといえば、いい年をしたおばちゃんが全国から大勢集まる。これは毒にも害にもならぬから未だ良いが、困るのは、国の将来を託する政治にも同じような行動パターンが現れていたことだ。

  どうか小泉教祖のマジックや、マインドコントロールに、国民の皆様が惑わされぬことを心より期待している。民主党は今回惨敗した。次なる代表には前原誠司氏が決まった。従来強かった大都市でも、今回は自民党に完全に制覇された。40代の若きリーダーのもとに一致結束せねばなるまい。そして労組とのしがらみも切らねば真の国民政党とはならず、土井ブームが去ったあとの社民党と同様に、衰退への道を歩むことになるだろう。
  それにしても、前原新体制発足の日に落選した民主党の前議員が覚せい剤使用で逮捕されるという事態が起きた。それも、国会では覚せい剤防止の質問を厳しく行っていた人物である。

  我々は小泉ブームに浮かれることなく、たまたま偶発的に当選した小泉チルドレンなる一人ひとりの議員の資質にも充分な気配りが必要である。ヒットラーは「人間は小さなうそよりも、大きなうそにだまされやすい」と確信し、大衆を操縦したという。人間の心理を細かく分析し、緻密な思考と戦略をあやつり国民を誘導したのである。

  「その国の国民のレベル以上のリーダーは現れない」という言葉もある。4年間の政権運営を自民党に託したのは、自分たち国民一人ひとりなのである。これから難しい問題が山積している。それらが具体化されるとき、愚痴を言う前に自らの行動をしっかりと振り返り、心して政治の行く道を見守り監視することが最も大事な責務といえるであろう。

* おまけ

  下記のイラストは、先の総選挙における各県や各都市独自の選挙キャラクターである。
こんな可愛いキャラクターが活躍していたとは.....。さて読者の皆さんは、このうちいくつ分かるでしょうか。
まぁ、一つでも分かれば合格といたしましょうか。



 戦後60年のオッチャン

 
60年前のオッチャンは、先の大戦終了時には小学校2年生だったはずである。このような曖昧なことをいうのは、その頃の記憶がかなり漠然としか残っていないからである。
  今も同じだが、幼い頃からの忘れっぽさは60年経た今でも抜けきらないものなのか。他の同年齢の方々とお話をすると、少しずつ思いだしてくる、という具合なのだ。

  米軍による日本本土空襲が激しくなるにしたがい、横浜に在住していた私たちは家族全員で疎開することになった。米軍の東京大空襲は昭和20年の3月10日である。この空襲では10万人にもおよぶ人々が亡くなられた。首都・東京の空襲は、そのあまりのひどさにメディアでの記録にもよく残されているが、実は、横浜大空襲は5月29日にあり、殆ど全地域が丸焼けになったのである。
  オッチャンの実家は横浜の中心地・伊勢崎町に近い野毛山動物園に隣接した高台にあったが、幸いにして奇跡的に被害はゼロであった。焼夷弾の直撃も受けず、戦火も坂の上をあがらなかったのである。これは本当に珍しいことであった。当時、疎開先から横浜の様子をみるために戻ったわが母は、横浜駅から実家が一直線に見えたので、ぶったまげたという。何しろ途中に家が全く無いからだった。母は、何しにきたのかと、祖母に厳しく言われて家にも入れてもらえず、疎開先へと帰ったと聞かされたことがある。その実家の豪邸の下方から、象やライオンなどの鳴き声やうなり声が聞こえてきた記憶がある。

  「豪邸」も古くなったが未だに健在である。一般道に面して最初に門があり、入り口に平屋の家があった。ここにオッチャンたちは住んでいたようである。そこを抜けると石畳みの細い道が続く。勿論、車は走っていける。坂を上がると運動場のような広場があった。そして更に石の階段をあがると、2階建ての洋館があった。玄関は和風と洋風と二つあった。洋風玄関は来客専用だったようである。この玄関の石の上に座ったセーラー服のオッチャンの写真が残っている。こんなのどかな日々もあったのだなぁ。我ながら可愛いく撮れている。

  古い記憶も新しい記憶も忘れるのが早いオッチャンだが、自分自身には、空襲で付近の家々が焼かれた記憶は残っていない。そんなことを考えると、疎開したのは3月から5月までの2か月ということになる......。とはいうものの、疎開前における横浜での小規模な空襲は何度も経験している。
  敗戦も末期に近く、毎日のような空襲警報が鳴ると人々は電気を消し、防空壕に逃げ込んだ。防空壕といっても、畳の下に穴を掘ったり、崖に横穴を少し深めに掘った程度であったように思う。何も分からぬ子どもたちは言われるままに、潜り込んでいたものであった。当時、米軍によって完全に制空権を奪われていた日本国土上空には、連日のようにB29の編隊が悠々と飛行しているのが見えた。幼心には、その怖さがまったく分からなかった。
 
  空襲警報のサイレンの鳴り響く中、ドーン、ドーンと高射砲の音が聞こえてくる。見上げると、いくつもの探照灯が角度を変えて夜空でB29を探している。数基の探照灯で捕らえた航空機に向かって高射砲から砲弾が発射されていることが分かる。たが、1万メートルもの高空までは砲弾が届かないから、打ち落とすことはできなかったようだ。オッチャンは複数の航空機が、探照灯の光の中に夜目にも、くっきりと捕らえられた姿を見ただけである。戦後発行された書物やテレビなどによれば、当初日本の軍事施設を標的にしていた米空軍は、ほぼ壊滅させたとみて軍部の発表を信じ、抵抗を続ける日本民間人の士気を打ち砕く方針に切り替えたという。そのため各地の都市が空爆の標的へと変わっていった。

  何しろ遥か雲の上を数百機も一度に飛来し、焼夷弾を雨あられとばかりに、ばら撒き都市の機能と日本人を皆焼き尽くす狙いだから、たまったものではない。アッッ島やグアム、サイパンなどを圧倒的な戦力で日本軍を玉砕に追い込み、一方では後方支援の日本国民の士気をなくす両面戦略をとったのである。



         超空の要塞B29の主な仕様

全幅:43.10m   全長:30.18m   全高:8.46m   主翼面積:161.50m2
エンジン:ライト社R-3350-空冷星型複列18気筒排気タービン過給 2200馬力 X 4基 
プロペラ:金属製4翔ハミルトン定速型   自重:33800kg   全装備重量:54400kg
 最大速度:550km/h(高度7600mにて)   着陸速度:169〜193km/h 
航続距離:5230km   実用上昇限度:10250m   武装:12.7mm機銃 X 10〜16挺
爆弾搭載量:4500kg(正規)、9100kg(最大)   乗員:11名

 


  祖父は養子であった。T帝国大学医学部を出て、のちに神奈川県医師会長もやっている。祖父の考えは、男子はすべて医師への道へ進ませた。また、女子は横浜市内でも著名な私立の女子学院へ進学させ、医師を婿として迎えいれることであった。婿は、殆どがT大学医学部卒業者であった。だが、オッチャンのオヤジは九州のKM医学専門学校であった。それで、当初から祖父とは気が合わず、東北地方の都市へと飛ばされたという。確かなことは、もう分からない。そんなことで、オッチャンの生地は岩手県岩泉町である。岩泉は盛岡市のとなりにある。

  その後横浜の病院にもどったあと、敗戦直前に、オヤジは栃木県上都賀郡今市町(現在は今市市)の病院へと再びとばされてしまった。もちろん激しさを加える空襲を避ける意味もあったのだろう。この頃、尋常小学校から国民学校と変わっていた気がする。一年生だったオッチャンたち疎開児童は一つの学級に集められた。60名位いたから、それで一学級が出来上がった。あとのこともあるので先に告白しておくと、オッチャンは当時としては珍しい双子の一人である。相棒は女の子だから、二卵性双生児ということになる。オッチャンの名前は千尋で、片方は百合と名づけられた。

  普通は女の子に付けられる名前だったから、いつも先生に間違えられ嫌な思いをした。いずれも祖父がつけたようである。祖父との触れ合いは殆ど無かったが、名付け親としては子ども心に恨んでいた。

  疎開児童は同じクラスだから、姉とは学校でも常に顔をあわせることになる。2人とも身体が小さかった。朝礼や体操など、何につけても男女はそれぞれ一列に並ぶ。皆が出席すると、ちょっとずれるが誰か一人でも欠席すると2人が一番前に並ぶことになる。学校で何が一番嫌かと言えば、二人が並列に並ぶことだった。姉は、精神的に少し異常があった。今で言う精神薄弱児であった。
  体操などで皆が校庭にいるときなど、友だちの弁当を食べてしまうのである。本人は、それが悪いこととは気づいていない。平気な顔をしている。こんなことも続くので、早く中学生になればいい、とオッチャンは思っていた。中学になるとクラスが別々になるからである。毎日そればかり考えていたように思う。だがそれは杞憂に終わった。姉は、小学校は卒業したものの、中学には進学しなかったのだ。(つづく)
   (C.W)