まさに紅葉真っ盛りという季節に、新潟・小千谷市を始めとする中越地方一帯に震度6から7の大地震が発生した。
遠く離れた当地でも大きな揺れを感じた。刻々と伝えられる現地の状況は予想を遥かに超えるものだった。倒壊した家屋、メチャメチャに飛び散る住宅の内部、山ぐずれ、体育館などに避難する人々。自然の力には逆らえない人間の弱さ。一寸先はわからないものである。
僅かな差で災難に巻き込まれた人たちのご冥福を心よりお祈りしたい。とりわけ、母子3人が車で走行中に遭遇した土砂崩れ現場では、幼い男の子一人だけが92時間ぶりに助けられた。母と子で大きく明暗を分けた。まさに奇跡的な生還を果たした幼児は、元気を取り戻しつつある。奇跡という言葉があるから、奇跡が生じる。どうか立派に成長してほしいものである。
かくいうオッチャンも 昭和24年12月26日、北関東の田舎町で結構大きな地震を経験した。当時はメディアも新聞だけであったから、現地の人以外は知らないことが多いが、新聞の一面には大きく出たことを覚えている。朝の食事を終えたばかりだった。突然の大揺れと共に、わが小さな木造の家は、土台の柱がつか石から50センチほど移動して止まった。市街地のメイン道路は、あちこちで大きな地割れが出来ていた。覗くと落ちていくような気がして、とても怖かった。
わが家は、何しろ屋根も壁もトタン張りの安普請だったから、軽々と動いてしまったわけである。余震が怖いから野外で一か月ほど過ごしたように記憶している。避難場所は近くの竹やぶだった。一番怖かったのは地割れで、中に吸い込まれたら大変と板張りの雨戸を敷いて、その上に寝ていた。
人口1万人程度の町だったし、当時のことだからビルのようなコンクリートの建物はなかった。大部分が木造家屋で裕福な家は石づくりの蔵を併設していたものである。その石の蔵が見事に倒壊したことに、貧乏人たちはおかしな感情を抱いたような気がする。
当時の記録を調べてみた。1949年12月26日、大きな地震は8時17分と24分に続けて起きた。規模はM6.4とM6.2と記録されている。死者10名、負傷者163名。住居全壊908戸、半壊5301戸、非住居全壊618戸とある。石造りの建物が多く倒壊し、山崩れも多かった..と続く。余震は3月19日まで続き、地面が割れて温泉が出たなどの記述もある。
幼い頃の記憶では、死者は1名だった。関東大震災(M7.9)以後では最大規模の地震だったのに、幸いにも火事は一件も発生しなかった。そのため、地震の規模のわりには被災は少なかったようである。
新潟中越地震はM6(震度6)程度と発表されている。これは、55年前にオッチャンが経験した地震とほぼ同じである。しかし、被災の程度はケタの違うものとなった。
文化・文明・科学の進歩は、日常の人類の生活には有益だが、自然のもたらす災害に勝つことは出来ない。このたびの地震では火事の発生が少なかったのがまだ救われている。被災した面積にくらべ、居住空間の少なさが火事による死者の増加が防げた要因ともいえる。
我々都市生活者が心得ねばならぬ点と納得している。
最後に、たまたま越後湯沢で今回の地震を体験された友人の(友人)からのメッセージを載せておきます。ぜひ皆様の参考にして頂きたくお願いするものです。
風呂から出たのが5時半。6時から宴会だったので、3階の宴会場へ行くかと6時一寸前(報道によると5時56分)立ち上がったとたん、強烈な揺れが来ました。「地震だな」と相部屋の3人で言い合いながら、どうするかと思っているうちに、停電し復旧する様子もないがともかく時間だからいくべぇと部屋を出たのは良いが、エレベーターは止まっているし、階段を下りて宴会場に着いたとたんまたぐらぐらっと来た。
電気は非常灯はついているが、廊下の明かりだけが明るいという状態で開宴しました。第3回目の大きな地震が、幹事の挨拶の中途で起こりどうするか、といったところで何処も行くところは無いし薄暗い中で飲むことしか出来ないのでひたすら飲むことに専念しました。
そのうちに、自家発電の明かりも消え職員さんが持ってきたロウソクの明かりでやったのですが、江戸時代の宴会はかくもありなん、と思いました。宴会の途中で携帯を持っている人に借りたのですが、NTTドコモは繋がりません、という返事だったので家への連絡を諦めました。
何がナベの中に入っているか解らないがともかく食べて、散会し部屋に戻ったが、廊下の光だけが頼りでテレビは付かず、水道もストップしているのでしょうがないから玄関のロビーで碁を打とうと言うことになり、一階まで階段を下りてフロントに碁盤をといったら倉庫の中で今探せないという。
ロビーに下りたときに公衆電話をかけたら繋がりましたので無事を連絡できました。部屋に戻って布団に潜ってウトウトしたらしばらくして、やっと電気がついてテレビが入り情報は全局地震情報だけで、惨憺たる有様が中継されました。湯沢は長岡の一歩手前ですが(30キロぐらいだろうと友人が言ってます。脱線事故の報道あり、道路の陥没の惨状も繰り返し放映され明日帰れるかどうか不明でした。
「発見 その1」
世の中便利になりすぎているので、携帯が不通だと電話はダメだと思ってしまう。既成概念にとらわれると出来ることも出来なくしてしまう。
「発見 その2」
いつもだと非常口は何処か確認するのに、それをしてなかった。着いたばかりの所為でもあったが・・・もっと被害が大きかったらそれをしなかったことを悔やんだかも知れない。といって実際はどんな行動が出来るか怪しいが・・・・
「発見 その3」
地震がくるのが判っていれば誰も出かけません。 無事で帰れたのは幸運だったと思っています。