新たな出会い・研鑚・社会貢献の場を求めて
**** 顧客の信頼と満足度(2) **** |
ついこの間まで、車がひっきりなしに通る木下(きおろし)街道沿いに愉快な魚屋さんがあった。いつも通勤のバスの中からお店の様子を眺めているだけだったから、店の詳しい実態はわからない。何が面白かったかって?それは店先に大きく、黒々と筆で書かれたひとつの宣伝文句だった。
ガラス戸の前面に大きくかかれていたのは、
「スーパーは魚を見るところ、当店は魚を買うところ」、という単純明快な言葉である。
いまや昔懐かしい豆腐屋、八百屋、魚屋などは次々と、食品スーパーにとって代わられつつある。そんな中で元気に、そして力強く大手スーパーに立ち向かう姿勢が素晴らしいと、つくづく感じ入ったものである。店主の意気込みに感動したのだ! しかし最近その前を通ったら、すでに魚屋さんはなかった。たぶん前掛けにゴム長靴、ねじり鉢巻で、威勢良く新鮮な魚をさばいていたであろう姿が思い浮かぶ。そんなオッチャンも廃業してしまったのか。そのような個性豊かな店が一軒、また一軒と姿をけしていくのはまことに寂しい限りである。
一方、固いことでは名前どおりの、あの金物屋さんも段々と減少してきた。数百、数千という細かい商品在庫を小さな店の棚いっぱいに積み上げて実に緻密な商売をしていたものである。浮き沈みの多い水商売とはまるで正反対の、叩いても、痛くも痒くもないといわれた金物屋さんも、とうとう長年受け継いできた商売継続の意欲を失った。ある日から突然、店のドアは閉まったままになっている。
昔から金物屋は決して潰れない、と言われていたものである。その神話も時代の趨勢には勝てなかった。
おじさんは、かつて金物屋さんのオッチャンに大変お世話になったことがある。あるとき、家族がみな田舎に帰省してしまい、おじさんは一人でマンションのわが家の留守番をしていたことがある。会社から帰って、さあ中に入ろうと思ったらキーが見当たらないのだ。身に付けたものすべてを取り出して、必死に探しても出てこない。
やむを得ず夕闇迫る中、ひょっとしてどこか閉め忘れているかも知れないと2階の自室によじ登った。ドロボーもかくや、というような格好である。通りかかった近所の人たちが、それとなくジロジロみている。わが家ではあるが、あまり見てくれのよいものではなかった。
ところがおじさんも結構しっかりした者で、全部のドアはちゃんと閉められており、入る余地はまるでない。いま横行するピッキングによる侵入者なら簡単に入れただろう。だが、当時そんな知識のなかった(いや、現在もそんな技能はない)おじさんが途方にくれていたときに、思い出したのが金物屋さんであった。
早速飛んできた金物屋のオッチャンは、いとも簡単にわが家の玄関のカギを開けてしまった。カギは何処かに落とした可能性もあるので、ボックス毎全部代えてしまったため、しっかりした料金を支払ったことは言うまでもない。同じような人もいるようで、暫くの間、かの金物屋さんは合いカギの製造だけは続けていたようである。
このとき別の頭で、おじさんは不届き千万なことを考えていた。(もしも善良な人でなかったら、別の商売もできるんだ)。
ここまでの事例と話はまったく飛ぶが、 おじさんは商売の大事な基本の一つは、「お客の必要とするものを、タイミングよく提供することである」と、常々思っている。
似たような機能を持ち、価格が多少異なる二つの商品があるとする。お客の購入意欲が強い場合は、価格が少し高くても性能の優れた商品を選ぶ傾向が強いことが知られている。
これは、人間の欲望には限りがないことで証明される。白黒テレビがカラーになり、大型化し、さらに平面タイプへ、そして液晶の薄型からハイビジョンへと購買意欲が刺激されていく。もちろんメーカーの主導によることが大きいが、それも人間の欲求があればこそである。
また、ある人が述べていた。
「お客に買ってもらうと思うな、買いたいと思ってもらえ!」。これもまた含蓄に富んだ言葉である。いろいろな面で活かせるし、ぜひ、効果的に活用出来るよう工夫していきたいものである。(C.W)