黄浦江のほとり上海の東南に、古くから栄えた南市と呼ばれる地域がある。ここには中国人のみが住み、その一帯は租界があった当時には、チャイナタウンと呼ばれていたそうだ。16世紀の半ば倭寇からの襲撃に備えるために城壁で囲まれていたという。中国人が移住した国々の街では、どこにでも見られる珍しくもない地名である。
だがチャイナ(中国)の国土の中に、チャイナタウンなどと呼ばれている一角があったことに、今、私は非常な違和感を覚える。そんな時代を、中国国民はどんな心情で生活していたのだろうか。

豫園の商店街
その南市の付近に明代に作られた庭園である「豫園」があった。上海の見所は概ね4-5キロの範囲にあるといわれている。私は外灘でバスを降りると、一枚の大きな地図を片手にせっせ、せっせと歩いていった。今日は朋友とは別行動、だから何も気にすることがない。私は、歩くことに対しては何の抵抗もないのだ。何せ各地のウォーキング大会で30キロ程度の歩行はいくつも経験してもいる。
大晦日から元旦にかけて、東京10社巡りで10時間も歩き続けたこともある。身につけたもので一番高価な物は、私の分身でもあるウォーキングシューズなのだ。
時々地図を見ながら、大体の方角を定め周囲の景観や人々の生活ぶりなどを観察しながら、ドンドンと歩みを進めていく。
中心地のビル街を抜けると次第に家並みも変わってくる。2階建てや3階建てが多くなって、色彩がいかにも中国的な極彩色ものになっているのに気づく。
しだいに細い道路を挟んで小さな店ばかりが連なる商店街になる。

豪華な商店街の建物
アパートの2階や3階には軒並み、直角に突き出た物干し竿に布団や衣服などが干してある。ちょっとした広場の立ち木には、これまた布団が山のように吊り下げられている。豫園への道筋は、まともに歩けないほどに人も多い。
いろいろなものを売っている。焼き鳥、ジャガイモ、バナナ、色鮮やかな?飴やお菓子のたぐい、ドラム缶で作るポップコーンや名も知らぬ様々な食べ物が並び、売られている。いわば、お祭りの露店みたいな感じの店ばかり。これらの店は食べ歩き専門だ。生きた鶏や亀がかごや水桶などに入れられている。
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大きな豚肉なども、その場で切り刻んで売っている。そのようなところを過ぎると、ちょっと景色が変わる。建物が大きくなる。空に向かって弓なりになった巨大な中国独特の屋根、その上には巨大な龍がつけられている。装飾の色合いが赤や黄色の原色ばかりになる。そして道路も広くなり歩道と車道に分かれる。車はあまり見受けないが歩道に露店の多いのは変わらない。
昼間からオーバーを巻きつけて眠っている人もおれば、くったくなさそうに佇んでいる人もいる。リヤカーで大きな荷物を運んでいく人もおれば、自転車に積みすぎてひっくり返る人もいる。
そんな雑踏の中に、一人の少女が首から大きな紙を下げてうつむいているのを見つけた。紙には長々と文章が書いてあるが、よじれていてよく見えない。大きな文字だけは何とか判読できた。次のように書いてある。「譲(ran)我早日返校求学 謝謝資助!」とある。一日も早く学校に戻り勉強したい、資金援助を頼む。ということであろうか。
2年ほど前の北京観光では多くの物乞いをみかけた。たが、このたびの上海留学では杭州の地下街への階段で、7-8歳の少女が小さなかごを持って通行人にを追いかけているのを見ただけである。

学費を求む
じっと見ていたが1元たりともあげる人はいなかった。私がそこを去る際に2元ほど入れたとき、ニッコリと微笑んだ顔は今も忘れない。
豫園も、もう近いな。と思いながらもどこにあるのか分らない。ふと見ると、交差点ちかくに警察官とも交通指導員ともつかぬ男女の整理員がいる。分らぬときは何でも聞くに限る。会話の勉強にもなる。整理員のおばさんに尋ねてみた。いうことは簡単な言葉だけで済む。
「請問!豫園在ナール?(チーンウェン、ヨーウユェンツアイナール=すみません、豫園はどこにありますか?)」。これで充分に通じる。そしたら直ぐにそばにいた男性警察官?に知らせた。その男性は、わざわざ豫園の入り口まで案内してくれたのである。日本人と分ったのかな。

名園・豫園の建物と水の調和
ここを真っ直ぐ行って、そこを曲がって、などと教えるのは面倒だったのかもしれない。もっとも、目指す場所は目と鼻の近くにあったのだけど。
(続く)
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