ライター 千遥
新しい年を迎えたある日のこと、定刻の午前5時にいったん目が覚めた。トイレに行って、再び布団にもぐりこんだ。ウトウトと寝入った時におかしな夢をみた。夢は概ね現実とかけ離れたことが多い。そして起きて間もなくすると、すべてを忘れてしまうのが定説である。ところが先日の夢は少しだけ記憶に残った。
「私は転勤で初めて東京に来たばかり、という背景である。私は課長職で数人の部下がいた。その中に日頃よく知っているプロ野球選手がいるのだ。課内の雰囲気は良かった。女性は皆知った顔である。あるとき、ふと見渡すと社内にはもう誰もいない。みな退社してしまったようだ。それで自分も会社を後にした。いつものように同じ電車に乗った。なのに、何かが違う。車内の雰囲気や車外の景色が見慣れたものと異なる。電車は見知らぬ方向に走っているようだった。気づいた次の駅で慌てて降りた。切符は当然持っていない筈なのに、なぜか無難に下車できた」。
「そこは、名前は知っていたが初めて降りる駅だった。自宅への帰り道が分からない。駅員に聞いたら、自宅とはまるで違うところに来ている。家までは、とんでもない距離がある。会社に電話しようとポケットを探ったら、財布も定期券もない。何のために会社に電話するのだろう。会社に忘れてきたのだろうか。横から別な自分がその様子をじっと眺めている。やっと小銭が見つかったので、横断歩道を渡って公衆電話で会社に電話しようとしている。会社の電話番号さえも思い出せない自分なのに....。そして当てもなく見知らぬ暗い道を歩いていった....」。
この夢は、一体なんだ。日常生活では考えられない出来事が起きる。以上は、忘れないうちにと断片的に書き留めた一部分である。思うに、いわゆる徘徊なのだろうか。認知症を患った場合の脳の動きは、こんなものなのだろうか。夢を用いて、認知症の疑似体験をさせてくれたのかも知れない。
1月27日、政府は「認知症、地域で見守り 総合戦略」を発表した。首相官邸で認知症対策を協議する関係閣僚会議を開き、省庁横断で取り組む総合戦略を決めた。2025年に認知症の人は約700万人、65歳以上の高齢者の5人に1人となると推計。当事者や家族に優しい地域づくりを柱とし、認知症の予防や診断、治療の体制整備などを盛り込んだ。戦略に基づく施策を来年度から進める。
新戦略は「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」。厚生労働省が13年度から進める「認知症施策推進5カ年計画(オレンジプラン)」に代わるもので、昨年11月の認知症の国際会議で安倍晋三首相が策定を表明した。基本的な方針として「認知症の人の意思が尊重され、住み慣れた環境で自分らしく暮らし続けられる社会の実現をめざす」と明記。本人や家族から生活上のニーズを調査し、施策に反映する。
地域ぐるみの取り組みとして、認知症で行方不明になる人の発見や保護のため、警察や住民が一体となった見守り体制を全国で整える。交通事故を防ぐ訪問指導や、詐欺などの被害に遭わないための相談体制も設ける。認知症の人が12年の462万人から25年には700万人になり、割合は65歳以上の高齢者の7人に1人から5人に1人となる推計値を提示。診療体制を整えるため、17年度までに認知症の早期診断に必要な研修をかかりつけ医約6万人が受講する計画を示した。歯科医や薬剤師など幅広い医療従事者にも症状に気付くための研修を実施する。首相は会議で「認知症は誰もが関わる可能性のある身近な病気だ。とも述べている。(日経新聞)
昨年の8月下旬、音信が途絶えていた友人S君の訃報に接した。函館西高から小樽商大を経て同じ会社に入った同期生である。彼は札幌の営業部門に配置されたが、私は理系だったため小樽の工場勤務となった。会社の寮が小樽にあったため、寝食は同じで以来50有余年の付き合いがあった。会社内のポジションは違ったが、お互いに親友と認め合う間柄。これは退職後も一貫して変わらなかった。そんな二人だが、住む場所は名古屋と千葉と異なったため日頃はメールでの交信が主体だった。そのメールも、ちょっと途切れていた矢先の出来事であった。
メールで書かれた内容やたまの電話で想像したとおり、認知症を患わっていたことが分かった。遺族からの手紙ではいつものように散歩に出たが、帰らぬので捜索願を出したとある。長男から送られてきたその手紙を紹介してみる。
ご承知のように長年糖尿病を患っており、毎食事前にはインスリンの注射を欠かせない状態であり、近年は痴呆症の症状もあり、少しずつ進行している有様でした。毎朝早起きしてラジオ体操に行き、7時頃からは近所の喫茶店に行くのが日課でした。20日においては、いつもより早く外出(4時半ころ)してしまいました。母の話ではいつも持っていくものを持っていかなかったり、着ていくものも違っていたようです。
心配になった母が5時頃に携帯に電話したけれども繋がらず、いつもの時間に帰ってこないので警察に捜索願をお願いしました。妹や警察の方が公園近辺を捜したり、喫茶店など立ち寄る可能性のあるところを聞いて回ったけれど見つかりませんでした。翌日の昼前に警察から連絡があり、公園の脇を流れる小さな川のそばで発見されたので確認してほしいとのことでした。私と母で確認をいたしました。
外傷もなく水も飲んでいないようでしたので、川のほとりで意識を失ったものと思われます。痴呆老人がたくさんいる中で、早く発見されたのは幸いだったと思います。顔は大変穏やかで眠っているようでした。(後略)
S君とは趣味が重なる部分があった。二人ともパチンコやマージャンが好きで、一緒に行動することが多かった。マージャンは低いレートで楽しんでいたため大きな負担とはならなかったが、パチンコは負ければ負けるほどのめり込んでいくことが多い。依存症に陥る。私は30代半ばでパチンコとは縁を切りその後一切、店に入ったこともなかったが、彼は奥さんとともにパチンコ店に入りびたり。これが大きな間違いであった。
ある時期から二人は名古屋と東京に勤務先が分かれ、彼は子会社に出向していった。会社への通勤は車を使わねば行けなかった。そんなことで車を購入したが、その代金は全てパチンコで賄ったと言う。私はそんなことはあるまいと思う。子会社では経理部長をしていたが、金銭感覚はかなり鈍かった。結局は一度購入した自宅を転勤で手放して以来、以後ずっと賃借の公団住宅住まいである。
普通の人は、こんなことはしない。総じて中流の意識があった当時、サラリーマンであればローンで自宅を購入し、定年までには借金を完済する計画を立てていた筈である。それが退職後に、年金の3割から4割は家賃の支払いである。これでは家計は持たない。そんな分かり切った将来設計が出来なかった。
S君は30代後半から糖尿病を患っていた。酒も飲まない真面目人間だったが、病気に対する対応はまるでダメだった。近年は持病の糖尿病の悪化が著しくインスリン注射は欠かせず、合併症で糖尿病性網膜剥離などの現象もあり手術を繰り返していた。その悪化の原因の一つは、かかりつけ医にある。と私は見ている。離れて住む息子はやっとそれに気づき、治療先を町医者から中京病院へと変えた。
彼の致命的な欠陥は友人がいないことにもある。ずーっと名古屋勤務で先輩や同輩、後輩も多い中で、親しくしている友人は私の知る限り同じ函館出身の後輩ただ一人である。出向先で定年を迎え退職するときに、送別会もしてもらえなかったという話もある。いかに人付き合いが悪かったか想像に余りある。
家計を助けるためか ? あるいはパチンコ費用の捻出のためか ? 奥さんはパートで働いていた。彼は留守番で洗濯や掃除はしていたこともある。しかし大半の時間はテレビで過ごしていた様子がうかがえる。会社時代にワープロを覚えたために、キーボードは使える。それで娘にパソコンを買ってもらい、私とのメールが始まった。だが、先方の話題は相撲と野球ばかり。全てテレビ観戦情報。こちらも知っている話ばかりだ。面白くもなんともない。
私は「少し外に出て、人と付き合ったらどうか」とか、昔覚えた「囲碁を碁会所でやったら如何」などととアドバイスした。特に趣味らしきものもない彼は、人との新しい交流はできなかった。唯一の趣味である囲碁を活かして、外へ出るきっかけができた。しかしやがて家計がもたず、賃借の公団住宅を出て、娘の住む近所にアパートを借りての新しい生活となる。これで囲碁との縁も切れてしまった。
そのうち、メールも途切れて全くこなくなった。おかしいなぁと思い電話してみると、パソコンに触るのも面倒になった。申し訳ないと弱々しい声が聞こえてくる。そばに奥さんもいるし、娘さんもいる。どうなったのかなぁ、と案じていた。そんなときに、前述の訃報が舞い込んできた。5年ほど前に、北海道で仕事や生活を共にした仲間(仙台・千葉・名古屋・岐阜在住)4人で浜名湖で会ったのが最後になる。そして昨年、4人のうち岐阜に住む後輩が企画した仙台旅行へは参加できなかった。費用もかかるが、旅行に行けなくなるのは認知症の一つの目安とも言われる。
学生時代の同級生や会社の上司や同僚など数々の方々を亡くしたが、認知症によるものは吾が親友の一人だけしか記憶にない。誰でもが患う、可能性があるとされる認知症。せめて私がそばにいたら、もっと確かな介助もできたろうに、と悔やまれる。
当コラムのpart5では吾が当団地に住む60歳の男性が孤独死したことを紹介した。その後も理事会を中心に親類縁者などの発見に努めたが、身元は特定できず司法判断により住居などは理事会で処分することとなった。現在は空き室となっており、格安価格で売りにだされているが入居者はいない状況。
こんな事件のあと、ほぼ1年後に新たな孤独死が発見されることになる。それは、これまで何回も触れてきたAさん。発見されたのは1月後半の月曜日の午前11時頃。Aさんは月・火・木・土がディサービスの日で、水・金にはヘルパーさんが来ていた。土曜日にディサービスのバスが迎えにきたが、Aさんは出てこなかった。何処かへ出かけたのかとバスは帰った。そして月曜日に来たときにもAさんは出てこない。たまたま集会所にいたコミュニティ委員会のメンバーから、私のところにAさんの行先について問い合わせがあった。
Aさんに関しては「徘徊」の話は聞いたことがない。私はAさんが外出というよりも、家にいる可能性が高いとみた。まずは管理人から近くの交番に電話をするとともに、鍵の業者にも連絡した。合鍵は管理人も保管していないためだ。そのうち、警察官が4人ほどバイクで駆けつけてきた。Aさんの住まいは2階ということで、救急車に加え消防車、梯子車もきた。しかし玄関は施錠されているので、鍵屋さんが来ないと入れない。団地保有の梯子を南面のベランダにかけて、警察官が窓を叩くと、窓の施錠が簡単に外れた。ここで即、Aさんは発見された。テレビもついたまま。電灯もついたままで、Aさんは前向きに倒れていたとのこと。
自宅での死亡だから簡単にはいかない。検視の係官もきて延々と調べは続く。警察官が来るまでに、私は1階階段下のポストの中を調べた。木曜日の夕刊から入ったままである。2階の玄関ポストには日曜日と月曜日の朝刊が見える。後日聞いた話では、Aさんの死亡推定時間は木曜日の午後9時頃とのことだった。
迎えに来たディサービスの女性にAさんに何か持病があったかと、聞いたが高血圧だけとしか返事はない。特に苦しんだ様子もなく、死因は「心臓発作」が後日に娘さんから聞いたことである。Aさんが自ら持病を語ることもない。また定期的な通院も聞いたことはない。我々の囲碁サークルに来るのは毎週日曜日。最後に会ったのは遺体発見の8日前になる。認知症を患っていても、それを全く知らない人は気が付かないことが多い。
Aさんは結構饒舌な話しぶりだった。二人だけだと、一方的にしゃべりまくる。それで初めての人はAさんの病気に気が付かない。ディサービスに行っている自覚は本人にはなかった。囲碁を打つ人がディサービスの仲間にいるため、他人には「碁を打ちに行っている」が口癖であった。それについて、私は余計な口出しはしなかった。認知症に特有の症状の一つ。Aさんは夏も冬も、同じような背広を着ていた。いつ見ても同じ格好だった。現役を終えて10数年にもなるサラリーマンで、普段の生活で背広姿はほとんど見かけない。Aさんは、同じ姿でリュックを背負ってスーパーに買い物に行っていた。徘徊する老人が全国で1万人と言われる今、行方不明にもならなかったのは幸いと言ってよいかも知れない。
当団地での一人住まいや夫婦二人のうち、どちらかが病を抱えている割合は20パーセント近くに及ぶ。古い建物ほど、この比率は高くなる。認知症でなくても、一人住まいでは孤独死は避けられない。しかしお互いの交流を深めることで、認知症の発症を遅くすることは可能とも言われている。90歳を過ぎても、元気な人たちもたくさんおられる。そのような方々の事例も参考に「元気で長生き」を目指したいものである。(C.W)
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