ライター 千遥
去る10月2日の土曜日、秋田・大曲につぐと言われる土浦の花火大会に行ってきた。実際は全国の花火師が集う競技大会だから、その見事な競演には何方でも驚嘆されることだろう。霞ヶ浦市に住むメール碁仲間の一声で、川越、仙台、福岡などに住む仲間5人が集まった。おっちゃんが一番近い。鎌ヶ谷から1時間たらずで現地に着ける。それぞれ到着時間が異なるが、無事土浦駅東口で落ち合った。
花火の開始は6時からだが、その数時間前から常磐線JR土浦駅にはつぎつぎと花火客が到着する。物凄い人並みで恐ろしくなった。後日テレビ放送を見た方からは80万人の方が来られたという。すでに頼んであったコンビにでお酒やつまみ、弁当などを持ち続々と来るシャトルバスに乗った。10分そこそこで所定の場所に着いた。
いろいろな花火
本格的な「打ち上げ花火」撮影経験者は仙台在住のH氏のみ。一眼レフカメラ所持者はH氏とI氏の二人のみだ。そのほかは普通のコンパクトカメラである。おっちゃんは、手振れ防止のリモートスイッチのみを事前に購入し、三脚はベテランからH氏から譲り受けることになっていた。
正式には「第79回土浦全国花火競技大会」という名称である。予め霞ヶ浦市在住のYさんから当日の花火大会のパンフレットなどをお送りいただいていながら、何も読んでいないものぐさの人間だから、どうにもならない。
後日パンフレットを眺めてみると、土浦市は市制70周年を迎える記念の大会であるという。この花火大会は大正14年、神龍寺の住職であった故秋本梅峰師が霞ヶ浦海軍航空隊殉職者の慰霊と不況にあえぐ商店街の復興、さらには秋の実りへの感謝、農民の慰労のために私財を充てて霞ヶ浦湖畔でスタートしたのが始まりだという。
その後、日本煙火工業会の会長を永く務められた土浦市出身の北島義一氏によって名実ともに日本一の花火競技大会となった、と言われる。前口上はこの程度にして、とにかく全国の花火師による競技大会だから、表彰も規模が違う。「」スターマイン」「10号玉」「創造花火」など優勝者ごとに、経済産業大臣賞、中小企業庁長官賞、茨城県知事賞などが与えられ、かつそれぞれに地元の議長や観光協会会長賞など盛りだくさんである。最高はそれぞれの優勝者の中から最も優れた技術者に内閣総理大臣賞が贈られるという仕組みだ。
帰途は花火客はみな一緒になるから、何方が一番かなどは興味もない。一目散に帰ることになる。
打ち上げ開始の18時近くになると、近くに設置された架設トイレもお客でいっぱい。ちょっと焦る。日も暮れてドーン、ドーンと始まる予告の花火が打ちあがる。花火は約100発打ち上げられたようだ。空いっぱいに広がる花火は、みな素晴らしい。しかし写真も撮らねばならない。忙しいことになる。おまけに酒も飲みたい。クドクド言わずに、まずはH氏の見事な写真を見てもらいましょうか。
つぎはI氏の作品である。
如何な物でしょうか。 出展しても、いずれも入選しそうですね。
おっちゃんもオタオタしながら、そして皆様のお力と知恵をお借りして何とかかんとか花火らしきものが撮れた。
これはお恥ずかしいしいからサムネイルで載せた。→クリックで拡大して見ることは出来ます。
コンパクトカメラでもしっかりマスターすれば、そこそこ撮れることがわかったので、つぎの夏が待ち遠しい。
川越のI氏は明治45年に制作された6寸の碁盤を積み、車で来られたが、宿では皆様もう囲碁を打つ気力はなく、酒を飲むのが精一杯であった。またI氏は由緒ある銀杏の苗を皆さんに持参してくれた。
I氏の話によれば、『同期の桜』ならぬ『同期の銀杏』。秩父神社(埼玉県秩父市)に昭和8年、秩父宮殿下・妃殿下が御来行されまして、銀杏の木をお手植えされました。
昨秋その銀杏の実を拾って来まして、蒔いて置きましたら今春芽が出ました。秩父神社と同じDNAを持つ『皆さん各々同期の銀杏』です。
昭和八年秩父宮両殿下がお手植えの銀杏は、「乳銀杏」と呼ばれいるそうです。この銀杏の苗が1㍍にも育った頃は、その姿をみられないかも知れない。しかし、その伝統は当市で伝えていこうと思っています。
霞ヶ浦は美しい。しかし、ここで訓練された若い人たちは中国や南方の海のもくずと消えてしまった。戦争はむごいものです。わずか14歳から17歳の若人の姿や残されたハガキや書面をを見ると、昔の若人は立派な方々ばかりだ。予科練記念館に残された数々の遺品や当時の写真を見て、そんな風に思った。
最後にあたり、霞ヶ浦に浮かぶ観光帆引き船をH氏の見事な写真で、ご紹介いたしましょう。
我々4人のために、いろいろとお世話くださった霞ヶ浦市の吉田茂さん、心よりお礼申し上げます。
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