本 へ の 想 い

鎌ケ谷市在住 田中 笙子しょうこさん


「イザベルと天使」

作・ティエリーマニエ  訳・石津ちひろ
絵・ゲオルグ・ハレンスレーベン  


 「ベイブ」というアメリカ映画の仔豚は賢くて勇気あるヒーローでした。「イサベルと天使」という絵本の仔豚は愛らしくて勇気あるヒロインです。この絵本は子供だけでなく大人にとっても、夢があり楽しく素晴らしいのです。是非一見一読してみて下さい。〈この中は、絵本からのものです。〉

〈あたしイザベル。ひとりぐらしをしているから、いつもたいくつしてばかり。・・・あたしがすきなのは、あたらしいものをみつけだすこと、くうそうすること、そして・・・たべること。
じつはあたしね、まいにち びじゅつかんにかよっているの。〉


 イザベルが一番気に入っているのは、大きな絵の中の・・・小さな天使の男の子。毎日毎日、絵を見に美術館へ。イサベルは天使に恋してしまったのです。絵の中から飛び出してきた天使とイザベルは本当に仲好しになりました。

〈そしてあたしのために、トランペットですてきなきょくをふいてくれた。
天使がね、びじゅつかんのいろんなところへあたしをあんないしてくれるのよ。
 天使といっしょだったら、なにをみてもすごーくたのしい。だけどたったひとつ、ぜったいみたくないものがある。それは・・・あの、うつくしい女神のちょうこく。〉


 天使はイザベルが、女神さまを見ようとしないので其の理由を聞きました。

〈だからあたし、ちょっぴりすねてこたえた。「だって女神さまは、あたしよりずーときれいなんだもの。あたしがあいたいのは、女神さまじゃなくってあなたなの!」すると天使は、すこしかおをあからめて、あたしのはなに、そっとキスをしてくれた。〉

 この二人のキスの幸せな可愛い絵が、絵本の表紙になっているのです。何度見てもあきません。仔豚のイザベルは服を着ていないのですが、その可愛らしさは自然で、抜群にうまくおおらかに描かれていて、しかも細かい心の動きが非常によく伝わってきます。絵と文との限りない魅力は絶妙です。

〈天使はなにがあっても、びじゅつかんのそとにはでられない。・・・ってことは、いつもいっしょにいるためには、あたしのほうからそばにいくしかないのよね。〉

 私が初めに愛らしく勇気あるヒロインと云った理由は次にあるのです。大好きな天使と何時も一緒にいられる為にイザベルは自分の生き方をサッと変えたのです。びっくりしますね。女の子なのに。

〈ほらみて!すてきなせいふくすがたでしょ?あたし、びじゅつかんのけいびいんになっちゃった・・・。
やきもちをやいちゃうから、女神のちょうこくは、ぜったいみないの。でもね、天使があたしにおくってくれるウインクとキスだけは・・・けっしてみのがしたりしないわ。〉


 皆さんも「イザベルと天使」に一日も早く会うことが出来たらいいですね。とても楽しく、幸せになれますよ。
 私の叶うことのない馬鹿な「夢」をきいて下さい。私はベイブのような仔豚君をペットに欲しいのです。
(女性ですからやはり男の子)毎日散歩にゆきます。淡いピンク色でクルッとした小さなシッポのついた丸い可愛いお尻、トコトコと歩く後ろ姿を想像しただけで、可愛くて可愛くて胸がきゅっとしめつけられます。名前はまだ決めていません。私にとり仔豚さんは宝物、そして素敵なゝ夢なのです。イザベルも最高に幸せなのです。

−(金の星社  1300円+税)−


「三屋清左衛門残日録」

作者:藤沢周平


 『日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ』清左衛門は、用人の職を辞し隠居して以来、「残日録」と名付けた日記を書きつづけている。残る日を数えようというわけではない。人生の残りの日という意味でもない。
限りある人生のその日、その日を一杯に生き、心に浮かぶもろもろの思いを書き綴るその日記とは-----。

 『-----そうか、平八。いよいよ歩く練習をはじめたか、と清左衛門は思った。人間はそうあるべきなのだろう。衰え死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をさゝげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ねるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。』(本文より)

 数ある藤沢周平の作品の中から、好きなものはと聞かれたら、私は「蝉しぐれ」と「三屋清左衛門残日録」の二作を、ためらうことなくあげます。一人の武家の少年が青年に成長してゆくさまを、友情、剣、忍苦、淡い恋を交えて描く青春の物語ともいえる「蝉しぐれ」に対して、御側用人の役目を終え隠居した清左衛門の生き方は、そのまゝ現代の定年退職後の男性の生き方とも重なります。「大人の小説」としての魅力に溢れています。十五話からなる連作で優劣つけがたいのですが、第一話「醜女」だけは先づ一番先に読んで頂きたいのです。

 何故なら、この一話に清左衛門の隠居に至る迄のこと、家族関係、特に嫁、里江とのほのぼのとしたあり方、対等につき合うつもりでいた世間が別世界のように遠くなる空白感、それを何か別の、新しい生き方で埋めて行くしかないことなど----清左衛門のおかれている状況がよく解るからです。
 幼なじみの友、佐伯との友情。藩の政争事件。零落した友との出会い。小料理屋「涌井」のおかみ、みさとの大人の恋と哀切な別れ、やっと歩く練習を始めた平八。一話ゝが面白く清左衛門の人間的な魅力を浮き彫りにしてゆきます。そして、最終章「早春の光」はこの小説のしめくゝりとして力作であり、清左衛門は、人間の生き方を平八に教えてもらったのです。


 『家に帰りつくまで、清左衛門の目の奥に、明るい早春の光の下で虫のようなしかし辛抱強い動きを繰り返していた、大塚平八の姿が映ってはなれなかった。今日の日記に平八のことを書こう、と思った。』
(本文より)

 読後の清涼感と、何か人恋しくなるような哀感が入り混じり、ふっと息をついてしまいます-----。人間が人間らしさを素直に感じられる。これぞ藤沢文学の醍醐味なのでしょうか?。

−文春文庫(562円+税)−


「千の風になって」

原詩/作者不明

                  日本語詩 新井満


 皆さん、こんな詩をきいたことはありませんか?
「私のお墓の前で、泣かないで下さい」と始まる短い詩です。これは、のこされた人々に対して送られた、死者、又は死んで行く人のメッセ−ジ、慰めの言葉なのです。どんなに調べても作者不明の西洋詩。「1000の風」
新井満がこの詩について書いています。まず詩をよんで下さい。


「千の風になって」
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわったています

秋には光りになって 畑にふりそそぐ
冬にはダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの 大きな空を 吹きわたっています
あの 大きな空を 吹きわたっています


 「あとがき」に代える十の断章〈本文より〉
死と再生の詩
『千の風になって』は、いったい誰が書いたのだろう

 断章 4 〈本文より〉
〈風とは、いったい何だろう・・・?風を見た人は一人もいない。つかまえた人も一人もいない。にもかゝわらず風はいつだってどこにだっている。自由自在に偏在している。生まれたと思えば、すぐに死ぬ。死んだと思えば、すぐに息を吹き返す。そうだ。風とは、息なのだ。大地のいぶきなのだ。地球の呼吸なのだ。

 千の風になるとは大地や地球や宇宙と一体化することなのである。人が死ぬと、まず風になる。次に、様々なものに生まれ変わる。“いのちの大きな循環”の中にくみこまれる、というわけだ。
 「私はたしかに死にました。けれど、人間以外のいのちに生まれ変わって、今もしっかりと生きているんです。だから心配しないでください。私のお墓の前でそんなに嘆き悲しまないでください・・・」

 作者は、そういう詩を書いたのだ。”いのちは永遠に不滅”要するに作者は、”死と再生の詩”を書こうとしたのだ。〉


 2003年8月の下旬、朝日新聞の天声人語(小池民男)で、この英語詩が欧米ではかなり知られた詩であり、多くの時に朗読されていることが分った。

 断章 8 〈本文より〉
〈米紙によると一九九七年、映画監督のはワード・ホークスの葬儀で、俳優のジョン・ウェインが「千の風になって」の英語詩を朗読した。(ジョン・ウェインはいったいどこでその英語詩を手に入れたのだろう。)

 1987年、マリリン・モンローの二十五回忌の時、ワシントンで行われた追悼式の席上でも、この詩の朗読がされたという。(誰が朗読したのかはわからない。)
 
 1995年、二十四才のイギリス軍兵士、ステファン青年は、IRA(アイルランド共和軍)のテロの犠牲となって死んだ。ステファン青年の葬儀の時、父親は、息子が書き残した”僕が愛する全ての人々へ”という手紙と、この英語詩を朗読した。この模様がBBCで放送されると大きな反響を呼び、たちまちイギリス全土の一万以上の人々から「朗読された詩のコピーが欲しい」というリクエストが殺到した。

 二〇〇一年九月十一日、ニューヨーク同時多発テロ事件の当日、世界貿易センタービル高層階にあるレストランでシェフをしていたクラークさん(三十九才)は、崩壊したビルと運命をともにして命をおとした。
 彼が最後に目撃されたのは、ビルの八十八階で車イスの女性を必死に助けようとしている姿だった。

 翌二〇〇二年九月十一日、グランド・ゼロで行われた一年目の追悼集会で、クラークさんの娘、ブリッターニさん(十一才)は、この英語詩を朗読した。
 「まるでこの詩は、父が耳元でささやいてくれているような気がしてなりません」そう前置きして。〉

 皆さんもこの詩を声に出して読んでみて下さい。生きている私達と死んでいった人達とのつながりがあるのです。遠藤周作のエッセイに、死んでいった自分と親しい人達は、この空のどこか一隅にいて、やがて自分も死ねば会う事が出来るのだと。死を悲しくて怖いものと思うのではないのです。

 時々、私は大好きだった懐かしい母の顔を想いうかべながら、「千の風になって」の詩を静かに読んでみます・・・。

−講談社(1000円+税)−


「サッポオの詩を」


 今年のオリンピックは、ギリシャのアテネで開かれます。紀元前七世紀の末頃に生まれた、ギリシャの女詩人、サッポウの歌う詩を聴いてみませんか・・・。
女らしい優婉さと心情のやさしさに加えて、高雅であり簡潔な力づよさも感じられるこの詩。はるか遠いギリシャ時代に、想いをはせれば心もときめきます。


  「星はあきらかな 月のあたりに
  かがやいた 姿をひそめる、

  十五夜の 銀のひかりが
  おかにあまねく 照りわたるとき。」


   「月は入り
        すばるも落ちて
   夜はいま
        丑満の
   時はすぎ
        うつろひ行くを
   我のみは
        ひとりしねむる。」


−ギリシャ抒情詩選 (岩波文庫)−