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目指せ! 日本の大復興!!!


         
  2011年3月11日に発生した東日本大震災により被災された地域の皆さま、 ご家族、関係者の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。被災地の一 刻も早い復興をお祈りしております。



  はや、あの悪夢の如き大地震から1か月を迎えようとしている。3月11日の14時46分、突如として日本列島に襲いかかった超巨大な地震。我が家のリビングでパソコンに向っていたら、突然ギシギシと家をも潰すような強烈な物音とともに、激しく建物が揺れる。うぅん、これは凄いぞ。普通ではない。このところ何度も訪れてくる震度3程度の地震には慣れてしまい無視していたが、今回はこれまでとはまるで違う。築後30年になるマンションも、もはやこれまでか。倒壊するかもと内心では、おっさんも観念していたようである。

 暫らくして肝が座った。こうなれば、つぎの揺れ次第だ。慌ててもどうにもならない。そしたら意外に冷静になった。強烈な揺れと共に、書棚の上にあげた日頃使わぬ品々や、本やCDの類がバサバサとストーブの周辺に落ちてくる。これはまずい、と火は消した。そのあと、狭い家の各部屋の様子を見て歩き被害の状況をカメラにおさめた。
 結局のところ床に落ちたものは本などと、食器棚の軽いプラスチックの容器だけであった。あのごっついパンチを食らって、落ちて割れたものは一つもなかった。重いテレビなどが飛んできてもおかしくなかった。そんなことも予測したが、家具類は一つも動かなかった。同じ市内の方でも被害をうけた家々もある。こちらはついていたとしか言いようがない。

   
    

                        鎌ケ谷市内 我が家の地震直後


  すぐそばのテレビをつけると、地震速報が直ちに入った。地震規模の知らせや海岸近くの市町村への大津波来襲を予告している。マグニチュードは8.6から8.8、最終的には9.0と確定。震度は7となる。1,000年単位の巨大地震であることが判明した。と思う間もなく、テレビの画面は海面いっぱいに広がった津波の模様を実況する。陸に近づくにつれ、真っ白い波が一段と高くなり押し寄せる。その高さや速さは並みのものではない。防波堤を乗り越え、街中にグイグイと侵入してくる。海辺の漁船はもとより、必死に路上を走る車列も逃さない。人も建物も全てを飲み込んでしまう様は、獲物を求める恐ろしい怪物の如しだ。かくして多くの町や市は完全に壊滅した。

 何と言うことか。津波の恐ろしさは充分に分かっているつもりだったが、実は何も知らなかったのだ。こんな生の映像は見たことがない。今回の津波の高さは最大で30㍍を超えるとも言われている。10階建てのビルも飲み込む、巨大な高さでおおいかぶさる。これでは到底逃げられるものではない。

 今の今まで、平静な日常生活を過ごしていた人たち。漁港から毎日海に出ていた漁師のおじさんも、田畑で新鮮な野菜栽培をしていた農家のおばさんも、街中で健やかに学んでいた子どもたちも、みな何処かに消えてしまった。被災者数は4月6日現在で死亡者一万二千余名、安否の不明な方は一万七千名を超える。

 
PDFで見られます。(PDFは朝日新聞より引用)

 死亡者や安否の不明な方々は、岩手・宮城・福島の3県で大半を占める。死者の少ない自治体はほぼその身元が確定された。しかし、あのような大津波では、多くの方々はいずこへ流されたかはとても特定できない。まして、何処もかしこも瓦礫の山である。死亡者が発見されても、氏名を特定する作業にも時間がかかる。
 3週間も経てば身内でも判別するのが難しいのが現実でもある。消防、自衛隊による瓦礫の撤去作業もいつ終わるかの見通しも立たないだろう。身元不明者や氏名が分かっても火葬場が間に合わないため、止む無く土葬する方も増えてきた。せめて、骨だけでも持ち帰りたいという遺族の方の願いも叶わない。震災は予期しない非情な仕打ちを与えて止まない。

 私たちは、そんなニュースを聞いているだけだ。遺族の方々や被災された皆様には、心より哀悼の意を表し、お悔やみ申し上げるものです。そして、一日も早く元気を回復されることを切に願うものであります。


  

       テレビ報道のすさまじさ    押し寄せる津波 Tunami       手もつけられぬ火災

左からひっくり返った大型漁船(気仙沼) すべてが無くなった廃墟の南三陸町 北上河口の惨状
(この動画はYoutubeより引用しました)上記の3画像は***.flv形式のため、一旦PCのDownloadファイルに
「対象をファイルに保存(A)」を保存してから開いてください。


   

     
    217時間ぶり奇跡の生還 80歳女性と16歳の少年 宮城県石巻市

 = 震災発生から10日目に、民家から救出された女性 =20日午後、宮城県石巻市
 20日午後4時5分ごろ、捜索中の宮城県警石巻署員が石巻市門脇町の被災現場で、80歳の女性と16歳の男性を瓦礫(がれき)の下から見つけ、救出した。80歳の女性は「地震直後からずっと家の中にいた」と話しており、東日本大震災発生から9日ぶりの救出とみられる。

 震災現場などで生存率が急激に低下するとされる被災後の「72時間(3日間)の壁」を大幅に超え、実に約217時間ぶりの“奇跡の生還”となった。
 救出されたのは、阿部寿美(すみ)さんと孫の任(じん)さん。2人は衰弱が激しいものの、警察官の問いかけには応じているという。県警のヘリで石巻赤十字病院に搬送され、治療を受けた。2人は発見当時、低体温症になっていた。寿美さんの体温は28度しかなかったという。

  
 大規模捜索 78人の遺体発見

【4月3日】

自衛隊とアメリカ軍などは、1日から航空機およそ120機と艦艇60隻余りを出し、2万5千人の態勢で海上保安庁や警察などと行方不明者の捜索を集中的に行った。

 捜索は、福島第一原子力発電所から半径30キロの範囲を除く、岩手県から福島県にかけての沿岸部が中心であった。震災のあと、広い範囲で冠水が続いている宮城県石巻市の釜谷地区では、陸上自衛隊の隊員およそ50人が腰まで水に浸かって、がれきや流木を取り除きながら捜索を続けた。自衛隊と海上保安庁によると、1日からの3日間の捜索で見つかった遺体は合わせて78人となった。
 日米総力をあげた捜索で100人にも満たない発見では、今後相当長期間を覚悟せねばならないだろう。それは、あの広範囲瓦礫からも予測可能であるし、厳しい困難が続くのはやむを得ない。

             


 
 <東日本大震災> 各国の報道
 

     中国人研修生助け、自らは津波に 中国で感動広がる

 被災した中国人研修生たち。飲み物を飲むためのコップを、紙を折って作る。ほかの人が折った紙コップを開いて折り直し、作り方を覚えた=宮城県女川町

  東日本大震災の発生直後、中国・大連から宮城県女川町へ働きに来ていた研修生20人に「津波が来るぞ」と警告し、高台の神社に避難させたあと、自らは津波にのまれた――。ある日本人男性の自己犠牲が中国メディアで報じられ、静かな感動を呼んでいる。

 国営新華社通信が18日までに伝えたところによると、その男性は、女川町にある水産加工会社、「佐藤水産」専務の「佐藤充」さんだという。同社は、生ウニを東京・築地市場などに出荷しており、中国人研修生たちは加工や出荷に携わってきた。 地震発生時、津波の知識を持たず宿舎近くに逃れた研修生たちを、佐藤さんは「もっと高いところへ」と神社へ誘導した。

 そして再び宿舎に戻ったところを津波が襲った。ある研修生は「彼が津波にのまれていくのを見た」と、新華社の取材に対し嗚咽(おえつ)しながら語った。大雪となった震災当日の晩、佐藤さんの兄にあたる社長は、研修生の寝泊まり先を探して奔走、知人の家を見つけてくれた。研修生たちは「現地の人々の助けがなければ今の私はない」などと話しているという。
 記事を「感動」というタイトルで掲載した北京の新聞、新京報には「愛には国境はない」などとコメントが寄せられているという。中国のインターネットサイトには、以前からの厳しい対日感情を反映して、東日本大震災で「日本に天罰が下った」などというコメントがみられる一方で、佐藤さんのような日本人の振る舞いに敬意を表す人々も増えている。


      
    「日本、加油!」 来訪予定だった台湾の高校生から手紙 日光

 【4月7日/日光】
 台湾との交流を促進する「日光日台親善協会」(宇井肇会長)に6日までに、台湾の高校生から、東日本大震災の被災者などを応援する手紙50通が届いた。来日予定だった高校生たちが中心となり、「必ず復興を」との思いをつづっている。震災の影響で、毎年5月に開催する交流事業は中止となった。同協会は「一日も早く日常を取り戻し、日光に招待したい」と望んでいる。

 手紙を書いてくれたのは、日光市と「観光友好都市」を提携する台南市・南寧高の生徒たち。「応援のメッセージを伝えたい」と、3月18日付で送付したという。中国語や日本語で、みな一様に「日本、加油(がんばれ)」「元気出して」などとしたためてある。

 日本での一人旅を夢見ている女子生徒は「みなさんのことをいつも思っています」とした上で、「たくさんの傷跡は残りましたが、希望も残っています。とてもつらいでしょうが、絶対大丈夫」などと、つづった。 台湾の生徒たちは2006年から毎年、日光市を訪問し、日光明峰高との交流事業などを行っている。これまでに約230人が訪れた。

 ことしも5月に約40人が来日し、生徒間で討論会を行う予定だった。だが、震災後の3月18日、台南市の関係者から電話で来日の中止の連絡があった。 届いた手紙は、同協会の事務局がある山内のレストラン「明治の館」の敷地内に張り出す予定。宇井貴彦事務局長は「勇気づけられる手紙ばかりで、つながりの大切さを再認識した。来年はぜひ来日してもらい、期待に応えたい」と決意を新たにした。

    
エジプトの若者 歌で日本激励

 【4月4日 カイロ】
 エジプトで日本語を学ぶ若者らが、大震災で被災した人たちを応援しようと、阪神・淡路大震災のあとでつくられた日本の歌を歌い、その映像をインターネットに投稿して思いを伝えることにしています。

 これはエジプトの首都カイロで日本語を学ぶ大学生15人が企画しました。震災で被災した人たちを励まそうというもので、日本人の講師のアドバイスを受けて、阪神・淡路大震災のあと神戸の小学校の教諭が作った「しあわせ運べるように」という歌を選びました。
 曲の中の「神戸」という歌詞を「東北」に置き換えて歌っています。学生らはいずれも法律など別の専攻を持ち、日本語は日本の国際交流基金が開いている教室で学んでいて、始めてからまだ1年から2年だということです。学生たちは「みんながんばって」などと書かれたメッセージを掲げながら滑らかな日本語で歌い上げていました。

 日本の新幹線が大好きだという男子学生は「まだ学生でお金もなく、日本の人たちのために何もできませんが、この歌で私たちの気持ちが伝わってほしいです」と話していました。学生らは、インターネットの交流サイトに自分たちの歌を投稿して、遠く日本へ熱い気持ちを伝えることにしています。


      
マニラの日本大使館前で開かれた被災者支援
の集会で、キャンドルを供える男性 
日本を示す赤と白のジャージ姿の被災者への
支援を呼びかけるドイツの人々
タイムズスクエアで合唱を行い、被災者へ
の支援を呼びかけるニューヨーク混声合唱
団の団員

左の2画像は、日本支援の韓国の若者たち 右は、米軍ヘリのパイロット そでにはトモダチ作戦のワッペン
(米軍三沢基地で)
                                   


    東京電力・政府の説明責任と風評被害

 太平洋戦争による壊滅的な廃墟から立ち直った日本国民は、このたびのような大津波は学者の方々を除けば身近なものとは想定していなかったに違いない。しかし、この地震では福島の原子力発電所をも破壊した。原発は過去の事故にも見られるように放射能による過酷な被害を生む。その対策が充分でなかったと指摘されている。

 この事故に対する適切で早めの対応が必要であるが、東電幹部や政府の発表が曖昧なために、多くの方たちが地震の二次被害に襲われ避難を余儀なくされている。福島のほうれん草は食べないほうが良いとか、茨城の農産物もダメだとか言われている。さらには魚介類までも話題に上がっている。こんなことで当鎌ケ谷市にも避難されている方がおられる。

 しっかりした説明の無いままに事故処理も進まず、風評被害は増大する。NHKなども原発から30キロも離れたところから現地を撮影している。これでは一般国民は動きがとれずに風評に惑わされるばかりである。
 東電はもとより政府、学識者一丸となって事故の始末をつけねば日本の信頼は地に落ちる。菅総理は震災に便乗して自民党や公明党に寄り添っている場合ではない。自らが率いる政府・党の総力を結集して、ことに当たって欲しいものである。

                  
                                                 

            

                 

                  

   
鎌ケ谷から初のJリーガー誕生! アルビレックス新潟 増田繁人選手

        鎌ケ谷市立東部小学校から同第二中学校を経て流通経済大学付属柏高校を卒業した
   

画像をクリックすると詳しい記事が読めます(PDFは4月1日号の地域新聞鎌ケ谷版より引用しました)