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****台風、地震、そしてテロ****
 
今年は実に雨の多い秋である。気象庁によれば、10月の東京の降水量は780ミリで、観測史上第一位と発表されている。東京圏内の当地も、ほぼ大差ない雨が降ったものと考えられる。振り返ってみると秋晴れの好天気などは、本当に数えるほどしか無かったような感じだ。
 
  現役で働いていた頃は、動くのも活発だった。雨が降ろうが雪が降ろうが全く関係なかった。いや、むしろ喜んで、自然に身体が動いてくれたように思う。ところが近頃は「今日はちょっと寒い」とか、「雨が降りそうだ」などと勝手に言い訳をして積極的な外出をしなくなってしまった。そんな怠慢のせいか、どうも身体が重い。ふと、気がついたら何と3キロも増えているではないか。

  メール交換の頻繁な友人からは、「年寄り転ぶな、風邪引くな、無理するな」など、と盛んに忠告されるものだから、「それもそうだな」と妙に素直に、納得してしまう。普段は反発しているくせに、身体が言うことをきかなくなってくると、簡単に妥協してしまうものなのか。この秋はそんな自分を克服する筈だったのに.......。一人秋の長雨を恨んで、自問自答するこのひと月であった。

  小さい頃から、恐いものを表現するのに「地震、雷、火事、親父」という言葉がある。いまや親父は昔の権威を失い、リストラ、解雇などに慄く子羊と化しているから、このような比喩からは論外の存在かも知れない。最近は果てしなく続く戦争とテロがとって変わっている。昔の日本なら仇討ちというところか。爆撃には報復の繰り返しで、連鎖反応は終わりを告げることがない。

  今から9年ほど前の1995年春、当時オッチャンは東京茅場町まで毎日電車通勤をしていた。小さな会社の東京支店である。たいして忙しくもない職務だったせいもあり、週末の日曜日を利用して群馬県の岩鞍スキー場に出かけた。月曜日1日の有給休暇をとり、3月の19日から春分の日の21日までの3日間、久しぶりに白銀の世界を楽しんでいたものである。ところが20日の月曜日、午前中の滑りから戻ってくるとロッジの様子がおかしい。東京は大変なことになってる ! と、そこの親父さんが言う。これが、あの地下鉄サリン事件だったのだ。

  この事件では、通勤ラッシュの地下鉄日比谷、千代田、丸ノ内線の電車5本にサリンがまかれ、12人が死亡、約5500人が負傷した。ノンビリ屋のオッチャンも、ノホホンとスキーをしている余裕がなくなった。会社の同僚や部下たちは皆、何らかの地下鉄路線を利用して通勤している。正に、ちょうどその通勤時間帯なのである。
  スキーどころでなくなったオッチャンは、テレビで報じる被害者のリストを凝視していた。会社に電話すれば様子は直ぐにわかるのに、遊んでいる身としてその勇気がなかった。しかし幸いなことに、社員からは一人の犠牲者も出なかったのである。
  運がよかった。それは社員の皆さんにも、そして自分自身にとっても................。「もしも、犠牲者が出たら.....」。オッチャンの心配は二つあった。社員の安全を祈る一方で、自らの保身を考えている自分に気づいた。こんなときに、管理職の端くれである自分は、遠く雪国で遊んでいる ! 

  22号台風の襲来どきに、宮崎でゴルフに興じておられた防災関連の幹部4人の方々も、うっかり飛行機に乗ってしまったことを後悔したことだろう。結果は台風通過どきに帰ってこなかったが、心は千葉に飛んでいたことと想像する。気持ちと行動が一致しないことが偶々起きる。人間とは、弱い動物である。

  今年本土に上陸した台風は10個を数え、 10月には台風22号と23号が相次いで本州を縦断した。幸いにも関東地方は大きな影響は受けなかったものの、四国、関西方面では町全体が水没したり、流される家屋も多数に上った。23号台風では、辛うじて残るバスの屋根の上で一昼夜を過ごし、救助された37名の乗客の方々に感銘を受けた。それにしても、見渡す限りの濁流の中で励ましあい頑張りぬいた人たちは本当に素晴らしい。最後まで諦めぬことの大切さを学んだ。



  まさに紅葉真っ盛りという季節に、新潟・小千谷市を始めとする中越地方一帯に震度6から7の大地震が発生した。
  遠く離れた当地でも大きな揺れを感じた。刻々と伝えられる現地の状況は予想を遥かに超えるものだった。倒壊した家屋、メチャメチャに飛び散る住宅の内部、山ぐずれ、体育館などに避難する人々。自然の力には逆らえない人間の弱さ。一寸先はわからないものである。
  僅かな差で災難に巻き込まれた人たちのご冥福を心よりお祈りしたい。とりわけ、母子3人が車で走行中に遭遇した土砂崩れ現場では、幼い男の子一人だけが92時間ぶりに助けられた。母と子で大きく明暗を分けた。まさに奇跡的な生還を果たした幼児は、元気を取り戻しつつある。奇跡という言葉があるから、奇跡が生じる。どうか立派に成長してほしいものである。

  かくいうオッチャンも 昭和24年12月26日、北関東の田舎町で結構大きな地震を経験した。当時はメディアも新聞だけであったから、現地の人以外は知らないことが多いが、新聞の一面には大きく出たことを覚えている。朝の食事を終えたばかりだった。突然の大揺れと共に、わが小さな木造の家は、土台の柱がつか石から50センチほど移動して止まった。市街地のメイン道路は、あちこちで大きな地割れが出来ていた。覗くと落ちていくような気がして、とても怖かった。

  わが家は、何しろ屋根も壁もトタン張りの安普請だったから、軽々と動いてしまったわけである。余震が怖いから野外で一か月ほど過ごしたように記憶している。避難場所は近くの竹やぶだった。一番怖かったのは地割れで、中に吸い込まれたら大変と板張りの雨戸を敷いて、その上に寝ていた。

  人口1万人程度の町だったし、当時のことだからビルのようなコンクリートの建物はなかった。大部分が木造家屋で裕福な家は石づくりの蔵を併設していたものである。その石の蔵が見事に倒壊したことに、貧乏人たちはおかしな感情を抱いたような気がする。
  当時の記録を調べてみた。1949年12月26日、大きな地震は8時17分と24分に続けて起きた。規模はM6.4とM6.2と記録されている。死者10名、負傷者163名。住居全壊908戸、半壊5301戸、非住居全壊618戸とある。石造りの建物が多く倒壊し、山崩れも多かった..と続く。余震は3月19日まで続き、地面が割れて温泉が出たなどの記述もある。

  幼い頃の記憶では、死者は1名だった。関東大震災(M7.9)以後では最大規模の地震だったのに、幸いにも火事は一件も発生しなかった。そのため、地震の規模のわりには被災は少なかったようである。
 
  新潟中越地震はM6(震度6)程度と発表されている。これは、55年前にオッチャンが経験した地震とほぼ同じである。しかし、被災の程度はケタの違うものとなった。
  文化・文明・科学の進歩は、日常の人類の生活には有益だが、自然のもたらす災害に勝つことは出来ない。このたびの地震では火事の発生が少なかったのがまだ救われている。被災した面積にくらべ、居住空間の少なさが火事による死者の増加が防げた要因ともいえる。
  我々都市生活者が心得ねばならぬ点と納得している。

  最後に、たまたま越後湯沢で今回の地震を体験された友人の(友人)からのメッセージを載せておきます。ぜひ皆様の参考にして頂きたくお願いするものです。



風呂から出たのが5時半。6時から宴会だったので、3階の宴会場へ行くかと6時一寸前(報道によると5時56分)立ち上がったとたん、強烈な揺れが来ました。「地震だな」と相部屋の3人で言い合いながら、どうするかと思っているうちに、停電し復旧する様子もないがともかく時間だからいくべぇと部屋を出たのは良いが、エレベーターは止まっているし、階段を下りて宴会場に着いたとたんまたぐらぐらっと来た。


 電気は非常灯はついているが、廊下の明かりだけが明るいという状態で開宴しました。第3回目の大きな地震が、幹事の挨拶の中途で起こりどうするか、といったところで何処も行くところは無いし薄暗い中で飲むことしか出来ないのでひたすら飲むことに専念しました。

  そのうちに、自家発電の明かりも消え職員さんが持ってきたロウソクの明かりでやったのですが、江戸時代の宴会はかくもありなん、と思いました。
宴会の途中で携帯を持っている人に借りたのですが、NTTドコモは繋がりません、という返事だったので家への連絡を諦めました。
 何がナベの中に入っているか解らないがともかく食べて、散会し部屋に戻ったが、廊下の光だけが頼りでテレビは付かず、水道もストップしているのでしょうがないから玄関のロビーで碁を打とうと言うことになり、一階まで階段を下りてフロントに碁盤をといったら倉庫の中で今探せないという。
  ロビーに下りたときに公衆電話をかけたら繋がりましたので無事を連絡できました。
部屋に戻って布団に潜ってウトウトしたらしばらくして、やっと電気がついてテレビが入り情報は全局地震情報だけで、惨憺たる有様が中継されました。湯沢は長岡の一歩手前ですが(30キロぐらいだろうと友人が言ってます。脱線事故の報道あり、道路の陥没の惨状も繰り返し放映され明日帰れるかどうか不
明でした。

 「発見 その1」
 
世の中便利になりすぎているので、携帯が不通だと電話はダメだと思ってしまう。既成概念にとらわれると出来ることも出来なくしてしまう。

 「発見 その2」 
 
いつもだと非常口は何処か確認するのに、それをしてなかった。着いたばかりの所為でもあったが・・・もっと被害が大きかったらそれをしなかったことを悔やんだかも知れない。といって実際はどんな行動が出来るか怪しいが・・・・


 
「発見 その3」 
  地震がくるのが判っていれば誰も出かけません
 無事で帰れたのは幸運だったと思っています。 
 
 「発見その4」
  情報はテレビのみと私を含め皆が決め込んでいて
<、クルマで参加したものが4人もいたにもかかわらず、クルマのラジオを聞いてみようとしたものがいなかったこと。携帯ラジオも、クルマの中で聞く以外にも必要な場合もあるので、小さいのをクルマの片隅にでも入れておいた方が良いかも。それと懐中電灯が旅館に備え付けて無かった。これも携行必需品の一つか・・・ 

 「発見その5」
 
落ち着いて行動できたのは、揺れは凄かったが、ものが散乱したり、落ちてこなかった事が有ったからだと思う。またそばに友人が一緒にいたからも、あったと思ってます。


(C.W)