新たな出会い・研鑚・社会貢献の場を求めて

**** 顧客の信頼と満足度(2) ****


 今年は、どうも異常気象の年らしい。梅雨入り宣言は早々にだした気象庁も、梅雨明けの発表をズーッと、しぶり続けた。毎日焼け付くような太陽の日差しが降り注ぎ、気圧配置も真夏並み、天気図にも梅雨前線は見当たらない。なのに気象庁は何の発表もしないのだ。そんなことで、おじさんの耐感・耐暑温度=体感温度も日ごとに上がる一方だった。
  実質的に、梅雨の季節もすでに真夏日が継続していたことを思うと、今年の夏は言葉どおり酷暑の年を覚悟せねばならないようである。
 
  難しい経済論議は学者大臣にお任せするとして、おじさんにはやはり身近な小売店の話題が向いているようだ。そんなことで、今回も身近な話題をとりあげてみよう。

  おじさんも、ちょっと前までは近くの酒屋さんに買い物に行っていた。タバコを買うためである。店の前には自動販売機が置いてあるから、そこで買えば事は済む。でも、それではあまりにも味気ない。そう思ったおじさんは、わざわざ店の中に入ってタバコを買い求めるのが常だった。

  いつも、店の中には人影がまったく見えない。その昔、流行した歌に「〜♪ 向こう横丁のタバコ屋の かわいい看板娘 ♪〜」なーんていうのがあったなー。そんな悠長な、のどかな風情は今どこにも見受けられない。みんなOLになって会社に勤めているのかあ。それでもついこの間までは、かわいい娘に代わって結構おばあさんなどが一人ちょこんと退屈そうに座っていたものだが、それも姿を消してしまったようである。おばあさんも、世の中との接点が無くなってしまい、つまらないのではなかろうか。

  おじさんが店に入ると、ピンポーンとドアホーンが鳴って、奥の部屋から店の旦那がひょっこりと顔をだしてくる。たまに、奥さんが出てくることもある。そんなとき、おじさんは始め一箱だけタバコだけ買うつもりだったのに、二箱にしたり晩酌のつまみを数点買ったりしてしまう。お客なんか滅多にこないから、酒屋の旦那と話しこむ。これが意外と社会勉強になる。

「オッチャン、元気かい! さいきんの景気はどうかねー」
「旦那さん、まるで あかんですよー」

「近くに大きなスーパーが出来るらしいよ。そしたら どうなるの」
「旦那さん、そうなったら、うちなんか、もう店じまいですよー」

  なーんていうわびしい会話になる。これはまずい、と早めに切り上げたりする。その後スーパーは完成し大々的な開店セールを始めたが、あの小さな酒屋は、まだ営業を続けている。相変わらず細々と店を開いているようだ。
 
  あの店で子どもが手伝っているのを見たことがないから、オッチャン限りで本当に店仕舞いかなあ。もう65歳をすぎているから国民年金は受給していると言っていたけど、それだけじゃあ、食えないし.........。自営業には定年がないから、まだまだ動けるうちは続けるそうだ。その後、おじさんもタバコの値上げを機会に禁煙してしまった。そんなことで、酒屋さんに顔を出す用事もなくなってしまったが、オッチャンは元気にしているようだし、とりあえずは安心だ。

  ついこの間まで、車がひっきりなしに通る木下(きおろし)街道沿いに愉快な魚屋さんがあった。いつも通勤のバスの中からお店の様子を眺めているだけだったから、店の詳しい実態はわからない。何が面白かったかって?それは店先に大きく、黒々と筆で書かれたひとつの宣伝文句だった。

  ガラス戸の前面に大きくかかれていたのは、
 
  「スーパーは魚を見るところ、当店は魚を買うところ」、という単純明快な言葉である。

  いまや昔懐かしい豆腐屋、八百屋、魚屋などは次々と、食品スーパーにとって代わられつつある。そんな中で元気に、そして力強く大手スーパーに立ち向かう姿勢が素晴らしいと、つくづく感じ入ったものである。店主の意気込みに感動したのだ! しかし最近その前を通ったら、すでに魚屋さんはなかった。たぶん前掛けにゴム長靴、ねじり鉢巻で、威勢良く新鮮な魚をさばいていたであろう姿が思い浮かぶ。そんなオッチャンも廃業してしまったのか。そのような個性豊かな店が一軒、また一軒と姿をけしていくのはまことに寂しい限りである。

  一方、固いことでは名前どおりの、あの金物屋さんも段々と減少してきた。数百、数千という細かい商品在庫を小さな店の棚いっぱいに積み上げて実に緻密な商売をしていたものである。浮き沈みの多い水商売とはまるで正反対の、叩いても、痛くも痒くもないといわれた金物屋さんも、とうとう長年受け継いできた商売継続の意欲を失った。ある日から突然、店のドアは閉まったままになっている。
  昔から金物屋は決して潰れない、と言われていたものである。その神話も時代の趨勢には勝てなかった。
 
  おじさんは、かつて金物屋さんのオッチャンに大変お世話になったことがある。あるとき、家族がみな田舎に帰省してしまい、おじさんは一人でマンションのわが家の留守番をしていたことがある。会社から帰って、さあ中に入ろうと思ったらキーが見当たらないのだ。身に付けたものすべてを取り出して、必死に探しても出てこない。

  やむを得ず夕闇迫る中、ひょっとしてどこか閉め忘れているかも知れないと2階の自室によじ登った。ドロボーもかくや、というような格好である。通りかかった近所の人たちが、それとなくジロジロみている。わが家ではあるが、あまり見てくれのよいものではなかった。
  ところがおじさんも結構しっかりした者で、全部のドアはちゃんと閉められており、入る余地はまるでない。いま横行するピッキングによる侵入者なら簡単に入れただろう。だが、当時そんな知識のなかった(いや、現在もそんな技能はない)おじさんが途方にくれていたときに、思い出したのが金物屋さんであった。

  早速飛んできた金物屋のオッチャンは、いとも簡単にわが家の玄関のカギを開けてしまった。カギは何処かに落とした可能性もあるので、ボックス毎全部代えてしまったため、しっかりした料金を支払ったことは言うまでもない。同じような人もいるようで、暫くの間、かの金物屋さんは合いカギの製造だけは続けていたようである。
  このとき別の頭で、おじさんは不届き千万なことを考えていた。(もしも善良な人でなかったら、別の商売もできるんだ)。

  ここまでの事例と話はまったく飛ぶが、 おじさんは商売の大事な基本の一つは、「お客の必要とするものを、タイミングよく提供することである」と、常々思っている。
  似たような機能を持ち、価格が多少異なる二つの商品があるとする。お客の購入意欲が強い場合は、価格が少し高くても性能の優れた商品を選ぶ傾向が強いことが知られている。

  これは、人間の欲望には限りがないことで証明される。白黒テレビがカラーになり、大型化し、さらに平面タイプへ、そして液晶の薄型からハイビジョンへと購買意欲が刺激されていく。もちろんメーカーの主導によることが大きいが、それも人間の欲求があればこそである。

  また、ある人が述べていた。
 「お客に買ってもらうと思うな、買いたいと思ってもらえ!」。これもまた含蓄に富んだ言葉である。いろいろな面で活かせるし、ぜひ、効果的に活用出来るよう工夫していきたいものである。(C.W)