Part 7

                                                                            ライター千遥

新春に備える大晦日


  紹興の旅も終わり、再び上海のホテルに戻る。泉山大酒店(ホテル)の従業員とはすっかり仲良しだから、「お帰り!」ということでニコニコと歓迎される。この小姐(xiaojie=シャオチィエ=おねえさん)は梁(liang ying ying=リャン インイン)という。同じ文字を二つ重ねるからパンダのような名前になる。まだ20歳、とてもかわいらしい。彼女の名前には「聡明」という意味も含まれているのだ。
 
  そんなことで、私は顔を会わせるたびに「貴女は聡明だ、とか、可愛いよ」などと言っていたから、相手もあきれていたに違いない。でも若いのに、仕事はしっかりやっている様子だった。たまに交代で休みのときなどは、当方も何か寂しく、つまらない気持ちになったものである。
 
  このホテルで好朋友(親友=ハォ ポンヨォウ)になったのは、警備員のオッチャンである。黒い皮のジャンバーを身にまとい帽子をしっかりとかぶった制服姿はとても格好がよかった。彼はそんなに忙しいわけでもないから、私がロビーに降りていくと、いつも「ニーハォ !」と声をかけて寄ってくる。
  彼の名は蘇金華という。その彼には、いろいろと教えてもらった。話していて、こちらが聞き取れず会話が成り立たなくなると、筆談になる。それでやっと理解する。そんなことの繰り返しだが、よくまあ、飽きずに付き合ってくれた。

  彼が私を「親友だ」と言ったのだから、滞在中は面倒を見るという意味もあったのだろう、と思う。次女からは、土産に「せいろ(蒸籠)」を頼まれていた。長女が台湾旅行に行ったとき、買ってきた「せいろ」がほしかったのだ。中国読みではツェンローンという。
  娘は三段重ねになった「せいろ」をスケッチして私に持たせていた。これを見せるとみな納得する。だが、これだけは、警備員のオッチャンも的確な購入場所を知らなかった。上海でも当然のことあるにはあったが、品物が貧弱でとても購入意欲が沸かなかった。
  道路をはさんでホテルの向い側に、小さな小売店があった。安価な食品や雑貨を主力とする店である。正月ともなれば中国もやはりミカンなのか。日本と何も変わらない。どこの店でも店頭には山のように積んである。
  私は、その店にときどき出かけていく。最初はタバコだけだった。それも銘柄は、中国政府要人が住む場所にちなむ「中南海」のみだ。いつも、おばさんがでてくる。もっとも、従業員はおばさんしかいないようだけど.......。
  そのうちミカンも買うようになった。それから、インスタントラーメンも買ってきて部屋のお湯を注いで食べる。種類はいろいろある。私はだいたい辣(la=ラー)を買う。とても辛いのだ。もちろん淡白な「淡」もある。お値段はいずれも4元である。

  いつからか、日本人のオッサンが来るというので、小学生の息子が顔をだすようになった。私のそばにやって来て、「日本語を教えて !」 という。お母さんは興味ありそうにその様子を眺めている。それで、「おはよう」とか「こんにちは」などと店先でやっていたものである。これも結構おもしろかった。


  翌31日の大晦日は朝から天候が崩れ、曇りから雨になった。夕方の6時半には梁先生(以下梁さんとする)の家にお邪魔して、梁さんご一家と一緒に年の暮れを過ごすことになっている。このときは、たまたま上海で仕事をしている娘婿も一緒に行くことで了解を頂いていた。明日の朝には、Kさんが迎えにくる。みなで上海郊外の周荘に出かけるためだ。
  そんなことで、午前中は明日に備え身の回りの整理などをすることにし、婿さんのやって来るのを待つことにする。

  大事なことを忘れていた。上海に着いたその日に、ホテルに迎えにきてくれた梁さんの自宅に案内されたことを、すっかり置き去りにしてしまった。まず、そのへんを記しておかねばならない。


  日本を出発する前に、梁さんへのお土産は何にするか、これが一番頭を悩ませた問題だった。中国人が自宅に外国人を招待するのは、並みのことではないからだ。おまけに家族団らんの大晦日の夜である。上海の街には、なんでもある。
 何がよいか、いろいろな人に聞いてみた。だが、よい知恵は浮かばない。
 日本で活躍する書道家の周徳華さんは、日本独特のこけしがよい。それも、こういうもの.....と知恵をつけてくれた。デパートなどにも出かけて目的の品物を探したが、アドバイスされた品は見つからなかった。いろいろ考えた末に、梁さんは日本語の先生であるから、「現代日本用語の辞典」など分厚いものを買い込み、さらに市役所などで発行している一般広報誌や日本ガイドの本など、普通の日本人が日常読んだり見たりするものを持参することにした。
 
 奥さんには、成田空港の土産店で可愛いこけし三点を決めた。あとは日本のお菓子と小さな息子さんへの形ばかりのオモチャとなった。このようなものは、考えるほどに本当に難しいものである。
 
   「案ずるよりも生むが易し」か。梁さんや奥さんたちにはとても喜ばれた。梁さんの自宅まで歩いて10分ほど、ホテルを出て暫くいくと、同じような団地が連なっている。それらは皆、5階建てだったような気がする。10ブロックほどの建物ごとに入り口があり、警備員の詰め所があった。外部の人間は、ここでチェックされてから内部に入る。

  梁さんからもいろいろな物を頂いた。マンションの内部は4LDK位の大きさで、わが家よりは遥かに広い。リビングルームは勿論、台所が格別に広かったのが印象に残る。なにしろ中途半端ではない。さすが食の中国、日本のこじんまりとしたキッチンルームとは桁が違う。床はフローリング貼りで日本と同じ。トイレもきれいだ。いわゆる下駄箱(shoes box)はないが、玄関で靴をぬいでスリッパに履き替える仕組みだ。
  杭州で訪ねた普通の農家の内部は全て土間だったが、都会地での建物は日本の生活と何も変わらないようである。

  お二人の結婚式のアルバムを見せていただいた。これはまことにビックリ仰天するものだった。日本でも最近は、一部の人たちは作っているようだ。しかし、中国における結婚式とは、私の常識を遥かに超えるものであった。「結婚」に対する意識の違いを思い知らされた。

  プロの写真館によって作られるアルバムは、厚い表紙で覆われ紐でしっかり束ねてある。いわば映画スター(明星)が登場する写真集そのものである。ご両人の衣装や振り付けが代えられ、さまざまな場所で、見事なポーズで撮られている。私は一瞬、自分の目を疑ったけど間違いなく目の前におられるご両人だ。例えは古すぎるがその昔、一世を風靡した上原謙と田中絹代などのスチール写真を見ている気分である。
  リビングルームにも、「白鳥の舞」のように美しい写真が大きなスペースを占めていた。結婚式とその記録となるアルバムは、お二人にとって「一世一代の記念日であり、記念品である」とする気持ちがジーンと伝わってきた。

  ほんとうに凄い!! ちょっと言葉に表せない。 
帰りはホテルまで、わざわざご夫妻に送っていただいた。まことに感謝に耐えない気持ちである。

 

                           用意された爆竹


  

 「ようこそ、中国へ 乾杯!」


  「せいろ」を探しに行った婿さんが雨の中、やっとタクシーで帰ってきた。もう約束した時間を過ぎている。私はこれから出かける、と梁さんの家に電話してから待たせてあったタクシーに乗る。ところが昼間よく覚えていなかったためか、間違えて一つ手前の団地で降りてしまった。トンマなオッサンのヘマは続くものである。
  団地の警備員のおじさんに電話を掛けてもらい、雨に降られながらやっと目指す団地にたどりついた。あまりに遅いので梁さんは外に出て待っていてくれた。部屋に入ると、もうすべて食事の用意は終わっている。われわれ二人が着くだけだったのだ。まことに申し訳ない気持ちであった。

  皆さんにご挨拶したあとは、さっそく乾杯をはじめる。「可愛い息子さんのために、干杯 !」。「皆さんの健康のために、干杯 !」とやる。中国での干杯は、まず白酒と決まっている。55度以上あるから、一気に飲み干すわけにはいかない。われわれは、ちびりちびりと飲み干すのである。それでも白酒はビン半分も飲んでしまった。ビールをいただいたのは、ずいぶん後になってからである。。
 
  テーブルにあふれる料理は、すべて梁さんとその父親が作ったものとのお話だ。鳥や豚などを巧みにさばいた肉料理、そしてチンゲンサイなど様々な野菜等々。奥さんの両親の家は黒龍江省であるが、孫の誕生に合わせて10か月前からきている、とのことである。かわいい孫の面倒をみるためだ。われわれ日本人は、男性は食べるだけという家庭がおおいようだが、中国では食事は夫婦交互に作るのが当然と聞いている。料理はどれも美味しかった。「ドンドン食べてー」と言われるけど、そんなに食べられない。ずいぶん残してしまった。でもこれが礼儀だそうだから、結果はよかった。全部食べてしまったら、料理が少ないと思われ、招待者に迷惑をかけるそうである。
  最後に煮魚がでてきた。これは日本のスズキのようであり、中国ではまことに珍しい。
 
  テーブルにビニールのクロスをかけるのは、一般の料理店と同じだ。中国の人たちはテーブルの汚れを気にして食べることはしない。こぼれた食べ物や骨などは、最後にテーブルクロスごと片付けてしまう。つぎの食事のときには別のクロスをかけるわけだ。食べるときのマナーにこだわる日本人と異なり、食を味わうほうに重点をおく。発想の原点がまるで異なる。まことに合理的な考え方と思った。
 


   
 
  餃子づくりに挑戦 !! 


  8時になった。テレビでは、日本の紅白歌合戦のようなものを放映している。内容は似たようなものである。年の暮れや正月はバラエティ番組が多い。みな楽しそうだ。平和な今をつくづく有難く思う。
 
  一休みしたあとは、水餃子を作りはじめる。この仕事は梁さんのご両親の仕事になる。よく分からないが水餃子は年寄りが作るものらしい。当方はかなり酔ってしまったことと、日本で中国語教師と何回か作っているので、本日は婿さんに代わってもらった。彼は家でも料理をするから、手さばきが上手い。みなに褒められて最後までやってくれた。一緒にきてくれて、私は助かったというものである。

  12時になって、みなで水餃子を食べる。その習慣は日本の年越しそば、と考えてまちがいないだろう。夜半近くになると、梁さんの家でも爆竹の用意をはじめた。
  そのうちはや、近くの家々からバーン、バーンと爆竹の音が聞こえてくる。いよいよ始まった。もう、いたるところから、音が鳴り響いてくる。花火もあちらこちらから上がっている。ちょうど雨もあがってきたようだ。外にでてみる。
  暗がりの中で、もぞもぞと動く物体がある。よくみると、爆竹や花火を仕掛ける人たちだ。適当なところにカメラを向けてみたら、いくつか撮れていた。二度とないであろう大晦日の夜はあっという間に過ぎ、午前1時半を回っている。上海の一般家庭の正月を充分に楽しみ、われわれは帰途についた。
  わが婿さんに抱かれた梁さんの息子さんも、今ごろは二歳になる。あと数年したら、さぞかし腕白になっていることだろう。再訪問が楽しみである。(つづく)