上海紀行
Part7

ライター:千遥

授業が開始される

さて、これから一日目の授業が始まる。食堂の女性従業員との楽しい会話? を楽しみながら、ただただ、お粥を腹にかき込むだけの食事を終えた私は一人で教室に向かった。すでに授業開始5分前というのに、まだ誰もきていない。教室前の廊下が唯一、タバコを吸うことが出来る場所である。すっかり馴染みになった「中南海(ツォンナンフアィ)」を一服ふかしていると先生らしき人が現れた。おおむね40歳位と思われるスラリとした体つきのインテリ風の女性である。中国人には珍しく恰好のよいスカートを着用している。「これは先生だな」とすぐに分った私は、「ニンハォ!」と声をかけた。

すると、相手の女性も同じように「ニンハォ!」と応えてきた。ウフン!これ位は私にでも出来る。私の姿や顔形を見て、即座に日本人だと察した女性は、年寄りに中国語で話すのは無理だと考えたのか、「Can you speak English ?」と英語で話しかけてきた。
私は「Yes I can a little」と流暢?な英語で応えた。老師(先生)は「多少はわかるのかな、フムフム!」というような風情をみせた。眼鏡の奥で、私を何者か考えているような感じがした。


   
先生より授業の上手な黄さん

何とはなしに備わった威厳がある。口をきっちり閉めて、恐そうな顔つきを?しているので私も一瞬たじろいだ。あとで思うと、授業時間でも同じような表情をしていた。それでも、僅かな時間ながら少しはコミュニケーションがとれたのは良かったようでもある。あとで孫先生の説明された時のメモを眺めていたら、緊急連絡先として孫先生のほかに、この威厳ある王建民先生の電話番号も記載されていた。

結局のところ、この王老師は授業中には一切日本語を話さなかった。というよりはむしろ、日本語を話せなかったというのが正しいのかもしれない。中国語のレッスンで我々に理解不足と思われることは、さらさらっと左手で滑らかに英語で注訳を黒板に書き、補助の説明を加えるのだ。使うのは中国語と英語だけ。受講生が理解するかどうかは、それぞれの顔を見て判断しているようだった。私はといえば、元々初級クラスの所属だから中級クラスの教科書そのものをもっていない。

ところがたまたま、朝食の時にきた女性の隣が空いていたので、そこに座らせてもらって一緒に教科書を見せてもらい、初日の授業を終わった。幸いにも、こうして寒い教室の中でも一番日当たりのする絶好の場所を確保することが出来た。
よくいわれるが、日本人は概ね一度座ったところから別の場所に変わることはない。このようにして、とりあえずはずうずうしくも二つの授業を受けていた。中国語で分らぬ説明も、英語での補足で何とか忍ぶことが出来た。

ところが、この授業が終わるや否や、受講生の間にハプニングがおきた。日本語無しの、この老師ではとてもついていけないと感じた若い女性たちの多くが初級クラスへ逃げ出すことになったのである。私は初級の発声訓練には懲り懲りしていたから、これ幸いにと若い女性の一人と教科書を交換し、中級クラスに変更してしまった。これが結果的に大いに幸いした。何と二日目から、老師は毎日交代し日本語も織り交ぜた先生ばかりだった。授業は中国で製作された日本人留学生向けの教科書を採用していた。しかし中身は予想したほど難しいものではなかった。


   
スーパーの自転車群

日本の教室で、しっかり中国語の学習をしておればクリアできる内容だったことを知る。私のように怠惰な中国語学習者にとっては助かる内容であったのだ。毎日隣り合わせた神戸出身の佐々木葉子(叶子=中国語には葉という文字がない。読みではイエツ)さんは西宮市に単身で住んでいるそうだ。神戸なまりの優しくしなやかな言葉は、私の耳をくすぐった。その爽やかな印象は残像として、暫くは消え去ることはないだろう。帰国後の今でもメールの交換はしているが、またいつの日か、あの声を聞きたいものと思っている。



構内から見るマンション

上海最後の授業の日に、彼女は教科書の中から素晴らしい言葉を見つけ出したのである。「有縁千里来相会(縁があれば千里離れていても会える)」との言葉を私に示してくれた。「千里」の私にふさわしい言葉を見つけてくれたように思う。こんな些細なことで、人は年齢に関係なく心ときめくのかもしれない。

                  (続く)

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