上海紀行
Part 16

ライター:千遥

     上海の正月

2002年1月1日の正月を迎えた。日本におれば朝から一杯のみながら、くだらないテレビを見ているのが通例のことである。今、数年前にはとても考えられなかった正月を上海で迎えている。

 大学生は3日まで休みだが、4日からは期末試験が始まるので、実質は休みともいえない日々を過ごしているに違いない。みな寮で勉学に努めているいる筈だ。我々留学生はそのようなことは全く関係がない。いつもどおり午前中の授業を終えると、さっそく正月の光景を見学に出かけることにした。朋友と一緒に外灘(ワイタン)に出て、魯迅公園の中にある魯迅記念館を訪ねることにした。



大人も楽しく神輿に乗る

上海にきて初めて、別のバス路線に乗る。中国は旧暦の正月を盛大に祝うのがしきたりである。だが、新年の元旦もそこそこに祝うようで、あちこちにその雰囲気を感じる。
 「新年好」とか「恭賀新年」などの店飾りも見受けられ、赤い提灯を連ねる店もある。ビル街を離れたバスは下町風の町並みをずっと走っていく。ふと窓の外に人だかりを見つけた。

 何事か興味しんしんで眺めた。高いバスの上だからその光景は良くみえる。何とファッションショーが行なわれている。路上までつき出た舞台の上を、華やかに着かざったモデル嬢たちが行き来している。欧米や日本のそれと何も変わらない。いつの世も、どこの国でも、美しさを求める女心に変わりはない。ただ、うっとりと見守る観衆との衣装の差が気になったといえばそうなる。



背景も衣装とマッチする

 終点の魯迅公園についた。小さな露店がたくさん出ている。僅か1日の休日だから子どもたちと一緒の家族連れが多く、つかの間の休みを楽しむ感じだ。風船を持った幼い子や飴玉をしゃぶる姿は、いかにも子どもらしい。入場料は2元位だったと思う。

 広い公園で目立ったのは遊具の多いことだ。大げさな装置を伴うものはないが、3-4人で遊ぶ小道具があちこちにある。子どもたちはもちろん、大人も幼児とおなじようにくったくなく遊びに興じている。老人夫婦の姿も結構見られる。

 日本と全く異なるのは、この寒空に厚いコートを着こんでマージャンをやっているグループの多いことだ。男性も女性も一緒に楽しんでいる。そんな人をまた大勢の人が囲んで眺めている。いわゆる家族マージャンだから必死に勝負しているものではない。
 広場では若い男女に混じり、年配の方々も太極拳に励む。

 

 公園の一番奥に「魯迅の墓」があった。ふと見るとその石畳みの上に、一人の老人が墨を入れた大きなバケツを持ちながら、太い筆で文字を書いている。


 素晴らしい文字を書く老人

 残念なことに、何を記しているのか判読できるほどの力を当方は持ち合わせていない。黒々と書かれた文字が、とにかく達筆だったことは間違いない。毎年正月に書いておられるものと想像した。その隣の緑の垣根に囲まれた芝生の中に、よく見慣れた魯迅の胸像がある。

そこを抜けると魯迅記念館となる。別料金となる。上海の人たちは、みな見慣れているとみえ内部に人はあまり見かけない。


風格を漂わせる魯迅像

偉大な文学者でもあった魯迅も、悩みは多かったようである。

 魯迅最初の執筆は1918年の「猟人日記」から始まった。それは「今天晩上非常(hen)好的月光...」で始まっており、「我不見他己是30多年今天見了」までである。「今夜は特に月の光が美しい。すでに30歳を超えた我輩も、このような素晴らしい月は見たこともない。今日、はじめてそれを見た」とでも訳して、大筋では誤りはないと思う。

 日本語に置きかえ出来る書物は、シナ小説集に書かれた「阿Q正伝」、1924「幸福的家庭」、1924「在酒楼上」、1920「風波」、1921「故郷」、などなど。魯迅の直筆も数多く残されている。



魯迅記念館
 
以下はその一つ、百草園というものを書いた時の説明書である。 「魯迅仙台医専時的課堂筆記上面有藤野先用紅筆修改的筆述」、「魯迅が仙台医専にいた時に、記したものである。上方には、藤野先生が赤い筆を用いて添削を加えてある」ということか。藤野先生は魯迅が仙台第二高等学校にいた時の教授で、藤野厳九郎 (1874-1945)のことである。日本で学び、日本を愛した魯迅も日中の戦火の拡大に伴い、遂に日本を去ることになる。

              (続く)

前のページへ