上海紀行
Part 26

ライター:千遥

   歴史を生きた宋家三姉妹
(写真特集2003.10.23宋美齢死去)

いわば公園墓地とでも言うべき慶齢の墓苑正門には、いかめしい表札が掲げられていた。「中華人民共和国名誉主席・宋慶齢陵園」とある。宋慶齢の生存時の役職は党副主席であったから、死去後に主席(名誉)に昇格したことが推察される。日本でも警察官や消防士などが殉職すると2、3階級昇進することが多い。これと同じだ。いずこの国も、官僚は国民のために生死を賭けているという意味かもしれない。

宋慶齢陵園(公園墓苑)

ここで宋家三姉妹の出生と結婚、そして波乱の中国社会との年表を総括しておきたい。1890年宋家の長女・靄齢(あいれい)が誕生した。93年には次女・慶齢誕生し、97年に三女・美齢が誕生した。この間、1894年に日清戦争が勃発、05年には東京で中国同盟会が結成され孫文が総理に就任した。

 11年に清朝が滅亡し中華民国が成立、孫文が臨時大統領に就任。しかし、1913年孫文は革命に失敗し日本へ亡命する。この頃靄齢(22歳)は財閥家の孔氏と結婚。14年には第一次世界大戦勃発(〜1918)、日本は中国に「二十一カ条要求」をつきつける。16年慶齢(22歳)は日本で孫文の秘書をやりながら、次第に二人は意識しあうようになる。27歳の年齢差も顧みず孫文と結婚。25年孫文没。27年美齢(30歳)は蒋介石と結婚。蒋介石は中国を統一し南京に国民政府が発足した。



岩波映画
映画「宋家の三姉妹」ポスターから

36年西安事件で蒋介石は張学良に軟禁される。このとき三姉妹はそれぞれの立場から協力して蒋介石を救出。37年魯溝橋事件、日中戦争始まる。第二次国共合作し抗日戦争に入る。39年第二次世界大戦勃発、40年三姉妹は抗日・難民救済に協力。41年日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争に突入した。42年美齢はアメリカを訪問し抗日演説。45年日本は降伏、その後国共合作は崩壊し再び内戦へと突入した。

  LIFE 1941.6.30 美齢44歳



蒋介石・元総統と宋美齢女史
 (Radio Taiwan internationalから)


 48年靄齢はニューヨークに移住。その後二度と中国の土を踏むことはなかった。49年中華人民共和国が成立。慶齢は新中国の副主席に就任。国民党は台湾に逃れ蒋介石は台湾総統となる。美齢は米華文化協会名誉会長を務めるなど、対外宣伝活動に奔走した。美齢は、蒋介石亡きあとも米国で隠然たる力を有していたといわれる。

 66年文化大革命始まる。71年国連は中華人民共和国を承認し台湾は脱退。75年靄齢(84歳)没。蒋介石(87歳)没。78年改革開放経済はじまる。81年慶齢も87歳でその生涯を閉じた。2001年張学良が滞在先のハワイで死去。そして最後の歴史の証人・美齢も2003年10月23日、その波乱に満ちた一生を語ることもなくニューヨークで死去した。106歳であった。ただ混乱の中で毎日新聞は104歳と報道。他に105歳との報道もあった。

美齢「台北=夕刊フジ特電」から

慶齢の墓苑に辿りつくまで元気いっぱいで歩いていった私も、時間切れで入場できぬことが分って、さすがにガックリきた。健脚が自慢の当方もやや疲れが出てきたようだ。折角来たので、ちょっとだけ中に入れてもらい、宋氏の墓の写真をとらせてもらった。



Kyoto Shimbun News=AP共同

さあ、今度はどうやって帰るかな。来るのは容易いが帰るのは意外と難しいものだ。目標は地下鉄の中山公園駅である。そこまで到達すれば、あとは楽々と宿舎まで辿りつくことができる。タクシーで地下鉄の駅まで行けば簡単なのに、そうしないところが私の私たる由縁がある。そろそろ夕闇が訪れてきたが、駅まで歩いていくことにした。方角は地図で確認してあるから慌てることはない。もうカメラも用事がないし、しっかりバッグに収めて帰途につくことにした。そういえば昼は何を食べたのか、すぐに思い出せない。録なものは食べてないに違いない。急に空腹感に教われてきた.........。(続く)



Newsweek April 29.1946
美齢49歳

 

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